いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

これまで生きてきて、いちばん役に立った本を挙げるとすれば、司馬遷の『史記』だと思う。

fktack.hatenablog.jp


 ああ、このエピソード、僕も印象に残っています。
 このエピソード、吉川英治の『三国志』で僕は読んだのですが、陳寿の『三国志』にもあった話なのだろうか。
 子供心に、曹操ってなんて酷いヤツなんだ……と絶句したのと同時に、もし自分がこのときの曹操の立場だったら、気まずい、なんてものじゃないだろうな、とも思ったんですよね。
 そういえば、吉川英治の『三国志』には、劉備一行をもてなすために、人間の肉を……みたいな話もあったよなあ。吉川英治さんも、その話を書くのに躊躇したらしくて、「当時の習俗やものの考え方は現在とは異なるので」などという「前置き」がありました。
 

 僕は学生時代、中国史を読むのにハマっていて、『史記』全巻クリアに挑戦していた(もちろん日本語に訳されたものです)のですが、『史記』って、『項羽 vs 劉邦』のような大河ドラマがある一方で、「列伝」のなかには、当時の変わった人たちを記録したものもあるんですよね。


 『史記』には、人間の暗部、みたいなものがけっこうサラッと書かれていました。
 中国史上初の農民反乱の首魁で、一時は王を名乗った陳勝が、昔の仲間たちが尋ねてきたときに、「あの頃のお前は、あんなにみすぼらしかったのに」みたいな思い出話をされて立腹し、昔の仲間を殺してしまった、という話や、劉邦が馬車で逃げるときに幼い息子が馬車から落ちても「放っておいて逃げろ」というのを、御者の夏候嬰が何度も拾い上げた、という話なんて、「こりゃひどい」と。
 後者の息子を見捨てて逃げようとした話は、当時は「まあ、天下のためなら、子どもひとりの命も軽いものなのかな」って、思っていたところもあるのですが、自分が親になると、そんなことないよね、って。
 子どもの頃みたヒーローものでは、「家族を人質にとられた人」が、悪の秘密結社に協力してしまうのを「みんなのことも考えろよ!」だったのですが、大人になってみると、「自分があんなふうに脅迫されたら、逆らえないよな……」と、すっかり弱気(?)になってしまっています。


 『史記』のなかに、最初に読んだときから、ずっと心に引っかかっている、こんなエピソードがあるのです。

 「臥薪嘗胆」という故事成語で知られる、越王勾践に仕えた名臣・范蠡は、宿敵・呉に復讐を果たした勾践を「苦労を共にすることはできても、栄華を分かちあえる人ではない」とみて辞職し、のちに商人として大きな成功をおさめます。


 大商人となった范蠡なのですが、次男が人を殺して楚(という国)で逮捕され、死罪の判決を下されてしまいます。
 范蠡は、次男を救うための根回しのため、末っ子に大金を持たせて楚に向かわせようとするのですが、長男が「家の危機に、なぜ自分ではなく末っ子を差し向けるのか」と主張したため、やむなく長男を派遣することにしました。
 范蠡は、旧友の楚の名士・荘生への手紙を託し、とにかく、荘生にすべてを任せるように、と念を押して、長男を出発させたのです。
 長男は粗末な荘生の家に不安を抱きつつも、とりあえず持ってきた大金と范蠡からの手紙を渡します。
 荘生は、長男に「わかった。あなたはこれ以上何もせず、すぐに国に帰りなさい。うまくいって次男が帰ってきても、その経緯は詮索しないように」と告げたのですが、長男は荘生を信用しきれず、そのまま楚の都に留まり、他の重臣にも弟の助命のために賄賂を配りました。


 荘生は、楚王に謁見して「星の動きが悪く、国に災難が訪れそうです。これを避けるには王の徳を示すしかありません。」と、罪人に恩赦を行うよう勧めたのです。
 信頼している荘生の言葉なので、荘王はこれを聞き入れます。


 (荘生が楚王にはたらきかけたことを知らず)恩赦の噂を聞いた長男は、それなら、荘生に贈った大金は無意味だったのではないか、もったいない、と思い、荘生を再度訪れて、さりげなくお金を返してくれるよう伝えます。
 荘生は、そんな長男の態度に呆れつつも、先日の大金をそのまま返してくれたのです。


 そして、荘生は再び楚王に謁見し、「今回の恩赦は、大商人である陶朱公(范蠡)の次男を釈放するためのものだ、と噂になっているようです」と告げました。


 これを聞いた楚王は范蠡の次男を処刑させた後、大赦令を下すのです。
 結局、長男は次男の遺体を抱えて帰国することになりました。


 范蠡は、長男を責めることなく、こう言ったのです。
「こうなるのではないかと思っていたよ。お前(長男)は若いころから私と苦労してきたから、金の大切さを知っていて、もったいない、という気持ちにとらわれてしまう。末っ子は生まれたときから家に財産があったから、金を稼ぐ苦労を知らず、大金を手放すことに未練がない。だから、この交渉は末っ子に任せるつもりだったのだ」


 この話の「理にかなってはいるのだけれど、納得できない感じというのは、何なんだろうな」って、僕はずっと考えてきたんですよね。
 人として「お金を大切にする」というのは、「良いこと」のはずじゃないですか。
 そういう「苦労の末に身につけた美徳」みたいなものが、かえってマイナスになってしまう状況というのもあるのか……
 でもこれ、そこまで「見えて」いたのなら、范蠡が最初からそういう説明をして、長男を説得して末っ子を行かせるか、「くれぐれも荘生の言うとおりにするように」長男に言い聞かせておけば、次男は死刑にならずに済んだのでは、とか、考えてしまうんですよね。
 少なくとも、長男はバカじゃなさそうだし。
 もしかしたら、これを長男への教訓にしようとしたのだろうか。
 そうなのだとしても、そのために次男を犠牲にするというのは、あまりにも代償が大きすぎるのではないか。


 范蠡は、先を見通せる、優れた人だったのだと思います。
 それならなぜ、次男を助けなかったのか。
 このエピソードはフィクションなのかもしれないけれど、それならなぜ、このフィクションを人々がつくりだし、ずっと語り継いできたのか。


 歴史をみていくと、「人はなぜこんなことをするのか?」あるいは、「どうして後世からみると『やるべきだったこと』をやらなかった(できなかった)のか?」という疑問だらけなんですよ。
 自分が年を重ねていくと、自分自身も「やってはいけないことをやり、やるべきことをやらなかったり、先送りにしてしまう人間なのだ」ということに気がつき、愕然とするわけですが。
 

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