いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

日野皓正さんの「ビンタ事件」についての雑感(あるいは、人間は善悪ではなく、好き嫌いで「判断」するということについて)


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 ビンタが良いか悪いかと問われたら、そんなの悪いだろう、やっちゃいけないだろう、としか言いようがないのですが、僕がこの件を知って、最初に思い出したのは、映画『セッション』でした。
 

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名門音楽大学に入学したニーマン(マイルズ・テラー)はフレッチャー(J・K・シモンズ)のバンドにスカウトされる。
ここで成功すれば偉大な音楽家になるという野心は叶ったも同然。
だが、待ち受けていたのは、天才を生み出すことに取りつかれたフレッチャーの常人には理解できない〈完璧〉を求める狂気のレッスンだった。浴びせられる罵声、仕掛けられる罠…。ニーマンの精神はじりじりと追い詰められていく。
恋人、家族、人生さえも投げ打ち、フレッチャーが目指す極みへと這い上がろうともがくニーマン。しかし…。


 この映画のデイミアン・チャゼル監督は、この後『ラ・ラ・ランド』を撮っています。
 パワハラ指導者に追い詰められながら、もう崖っぷち、と思われたところで、「超越」してしまう主人公……
 緊張感あふれる作品なのですが、観終えて、「世の中には、こんなふうに指導しないと開花しない『才能』というのが、あるのだろうか?」と考え込んでしまったんですよね。
 世の中には「厳しい指導者伝説」みたいな話がたくさんあるのですが、それで指導された側が結果を出してしまえば「結果オーライ」になってしまうことが多いのです。
 それでも、スポーツ界では、だいぶ是正されてきているみたいですけどね。昔に比べると。


 最近読んだ『ジャズの証言』という新書のなかで、ジャズピアニストの山下洋輔さんと音楽評論家の相倉久人さんのこんなやりとりを読みました。

 フリージャズについて、山下さんと相倉さんは、こんな話をされています。

相倉:だから、「でたらめをやろう」と言っても、何がでたらめで、何がでたらめではないか、あなたたちはよく分かっていたんだよね。西武の「スタジオ200」で、何週間か音楽講座をしたのを覚えてる? フリージャズを学ぼうという回で、三パターンの実験をしたよね。最初にお客さんに、「楽器を全く演奏したことのない人、上がってください」と言って舞台に上がってもらう。ドラムセット、ギター、ピアノがばらばらに置いてある状態で、勝手にめちゃくちゃやってくれ、要するに暴れてくれ、という趣向です。五分くらいで終わるんですね。演奏しているうちになんとなく収束する。「ありがとうございます」と舞台から降りてもらう。
 次に「楽器を勉強している人、上がってください」と同じことをしてもらうと、これがちっとも終わらないんだよね。聴いていても耐えがたいだけなんです。しかたないから紙を出して、「そろそろ、終わってください」と言う。まあ二十分ぐらい演奏したかな、その録音を巻き戻してそれぞれ聴いてもらった。すると演奏した当人も耐えられないほどの、ただの騒音でした。
「では、最後に模範演奏を」ということで、山下さんを中心にしてやってもらった。そうやって、どこがどう違うかを会場の人に聴かせた覚えがありますが、ぼく自身すごく面白かった。
 そもそも壊すのは難しい。なおかつ、デタラメふうにやろうとしても、テクニックを多少持っていると、さらに終わらなくなってしまう。しかも燃焼しないからますます終わらず、疲れるまでやってしまう。だから「もうやめてくれ」と途中で言うよりしかたない。それは、「フリー」ではないわけです。プロがやればそうはならないんだ、ということを見せたつもりでしたが、つまりその辺りの違いだね。


山下:ええ。終わりはビシッと格好良く終わろう、という形式観がぼくらにはありました。どこか「カッコいい」というのがテーマにあって、特に森山の潔さは半端なかった。


「フリージャズ」とはいうけれど、「型」を極めているからこそ「型破り」なことができるのです。
 全く基礎ができていなかったり、中途半端な実力しかなかったりすると、「フリージャズ」にはならず、単なる「騒音」が出るだけなんですね。
 それは突き詰めていくと、「フリー」というより、「即興」に近いものである、ということなのかもしれません。


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 この映像をみて、正直、「よくわからないな」と思ったのです。
 この中学生が、どんな演奏を、どのくらいの時間、やっていたのか。
 この中学生は、晴れ舞台で「自分のソロパートでアピールしてやろう!」という野心を持っていたのではないかなあ。
 それで、周りを気にせずに、ひたすら「自分だけのアドリブ」を演奏しつづけていた。
 そういう想定外のアクシデントみたいなものが「ジャズ」なのだ、と思って。
 でも、まだ中途半端な実力しかなくて、野心だけが空回りし、演奏そのものが壊れてしまっていた。
 日野さんは、最初にスティックを取り上げて、彼に「それはアドリブじゃなくて、お前の独りよがりだ」と言ったのかもしれません。
 にもかかわらず、彼は、手でドラムを叩き続けた。
 自分の演奏に酔ってしまっていた、あるいは、自分で止めようにも、止められなくなってしまったのだろうか。
 そこで、日野さんはビンタをするのですが、僕には体罰というより、「正気に返れ!」というビンタのようにもみえました。
 

 そういう目的なら、ビンタしてもいいのか?と言われると、「原則的にはダメだろう」としか言いようがないのですけど。


 流れをみると、言って聞かせてもうまく伝わらなかったので、手が出てしまったように見えるんですよ。
 そして、ステージの上で、みんなが自分の演奏を待っている状態で、彼に演奏を止めさせるには、これ以外の方法は、なかなか思いつかないですよね……バケツで冷水をぶっかければ、よかったのか?


 日野さんからすると、「そういうのは『フリージャズ』じゃないし、『アドリブ』でもない。勘違いするな」という気持ちだったのではないかと。
 

 体罰や暴力は僕も大嫌いです。しかしながら、そのうえで、「同じ状況で、対案を考えてみろ」と言われると、困ってしまいます。
 この中学生の「暴走」はジャズじゃないけれど、「暴走した演奏者をビンタで止める」というところまで含めたら、ジャズなのかもしれない。
 ……僕も自分で何書いているのか、よくわからなくなってきました。


 僕は人生で一度だけ、往復ビンタを食らったことがあります。
 小学生のとき、全校集会の最中に、いきなり立たされて、ビンタされたんですよね。
 その日、僕はプール掃除の当番だったのですが、それをすっかり忘れて、普通に登校してしまっていたのです。
 全校生徒の前で、いきなりビンタされたのは、かなり衝撃的だったのですが、まあ、それは僕が悪かったとしか言いようがなく、そのことで先生を恨んでもいません。
 けっこう良い先生だと思っていましたし、その後転校し、小学校を卒業してしばらく経ったあと、弟が通っていた小学校に転任してきたその先生が、「お前の兄ちゃん、どうしてる?」って尋ねてくれた、というのを聞いて、ちょっと嬉しくなりました。
 大事なことを忘れがちな僕は、あのときの教訓から、大事なことはなるべくメモしたり、何度も確認するようにしています。
 スマートフォンで自分の予定を身に着けていられるようになったのは、本当にありがたい。


 僕は最近、よく考えるんですよ。
 人は、良いことをする人が好きになったり、悪いことをする人が嫌いになったりすると思いがちだけれど、身近な人に関しては、好きな人がやることはなんでも良いことだと感じるし、嫌いなヤツがやることは、悪いことだと認識しているのではないか、って。
 善悪よりも、好き嫌いで、人は「判断」してしまうのではないかって。
 そして、その「好き」「嫌い」が安定している人もいるし、不安定な人もいる。
 ビンタは絶対ダメ、って言っても、アントニオ猪木にだったら、ビンタしてもらいたい、っていう人は、たくさんいるでしょう。
 恋人同士だったら許せる、あるいは快楽になる行為でも、気持ちが冷めてしまったら、「触るのも嫌」なんてことは、よくある話です。


 そんなふうに「個々の関係性で、善悪が揺れやすいもの」だからこそ、「原則的に、体罰や暴力はダメ」だということにすべきなのです。
 「戦争は絶対にいけない」と言う一方で、「しかし、戦争というのを人類は繰り返してきたし、それは『起こりうるもの』ではあるよなあ」と多くの人は認識しているはずです。
 だからといって、「起こるものはしょうがない」って、最初から容認していては、なし崩し的に「なんでもあり」になってしまう怖さがある。
 

 北朝鮮がミサイルを発射し、Jアラートが鳴った日の朝、僕は思ったのです。
 向こうにとっては威嚇のつもりでも、ミサイルに当たったら僕や大事な人は死ぬかもしれない。
 それなら、こちらから先制攻撃して、リスクを減らしたほうが良いのではないか?
 そんな「好戦的な」考えをしてしまう自分が、少し怖くなりました。
 それと同時に、「ああ、戦争っていうのは、こんなふうにして、自分たちが傷つきたいない、やらないとやられる、という思いから、はじまっていくのかな」とも感じたのです。
 第二次世界大戦の前、ヒトラーの要求に屈して、「これ以上の領土的な野心を持たない」という条件で、チェコのズデーデン割譲を認めたミュンヘン会談というのを知って、「そんなふうに譲歩をしても、ヒトラーの野心を止めることなんてできなかったではないか」と、「後世」を知っている僕は思いました。
 しかしながら、当時の人は、「それでなんとか、戦争を避けられるなら」と考えていたのです。


 人は、暴力や戦争を嫌う。
 でも、圧倒的な暴力が自分に向かってきたら、話し合いで解決できないことがあるのも知っているし、「暴力から自分を守る手段」は、逃げるか、やり返せる実力を誇示するしかない、と考えてもいる。


 話せばわかる、を否定すべきではない。
 でも、酔っぱらった大柄の野球選手が、救急外来で暴れている状況で、「説得」が通じるのか?


 なんらかの意見というより、思いついたことを垂れ流しているだけになってしまって、大変申し訳ありません。
 最近、「結局、理性は感情にかなわない、というのが人間の性質なのではないか」と考えてばかりいます。



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