いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

牛乳石鹸のCMに対するいろんな意見を読んでいると、なんだか落ち込む。


 ネットにちょっと、疲れている。
 というか、疲れるようなところに、自分で近づいているのも間違いないのだが。
 地雷原と看板に書いてあるのに自分から踏み込んでいって、「なんでこんなところに地雷が埋まってるんだ!」と怒っているヤツは馬鹿だよね。


 牛乳石鹸のCMに対するいろんな意見を読んでいると、なんだか落ち込む。
 このCMをみても牛乳石鹸への購買意欲はそそられないだろうけど、ああいう定番ブランドって、こういう形でも、名前をときどき思い出してもらうだけで十分なのかな、という気もする。


 僕はあのお父さんのダメなところを頭では理解できるつもりだけれど、これまでの人生で、ああいうことをやっていなかったか、と問われると、全く自信がない、というか、思い当たる節がたくさんある。
 仕事が終わったあと、部下をフォローするための飲み会の席で、家族からの電話を取らないお父さんが批判されているけれど、あれをみていて、「ああ、取らなきゃいけないのはわかってるんだけど、部下を心配させちゃいけないとか、取っても言い訳のしようのない状況だとか、あれこれ考えていると、とりあえず問題を先送りしたくなるんだよなあ」と、過去のさまざまなネガティブな記憶がよみがえってきました。
 逃げちゃダメ、なのは、わかってるんだけどさ。

 
 ネットの世界って、優しくて、厳しいよね。
 発達障害や鬱による「生きづらさ」の告白については、多くの人が応援してくれる。
 自殺をほのめかせば「とにかく生きていることが大事だから」と声をかけられる。
 でも、このCMのお父さんのような、家族にも会社の同僚にも八方美人でいようとして、かえって全方面に足りない部分が出てしまう、不器用な人のケースに対しては「お前は○○がダメだ」「こんな男は家庭人失格だ」と大バッシング。
 あのCMを見たかぎりでは(といっても、フィクションにあれこれ言ってもしょうがないのかもしれないけどさ)、自分なりに一生懸命やっているのだけれど、なんだかうまくいかないことが多い人生に疲れを感じつつも、なんとかリセットして明日も頑張ろう、って、そういう話なんだと思う。
 父親でも母親でも子どもでも課長でも平社員でも、そういう感じで、日々を過ごしている人って、けっこういるのではなかろうか。
 少なくとも、僕はそんな完璧な人間じゃないので、あの映像をみて、「ああ、そこは部下のフォローよりも家に真っ直ぐ帰ったほうがいいのに!」とハラハラしつつも、他人事とは思えなかった。
 ああいう場面って、部下の側からすれば、「ただでさえ怒られてつらいのに、仕事のあとに上司にまた気を遣うのもめんどくさいなあ」だったりするものですよね、本心としては。
 いろんな意味で、人間どうしというのは、噛み合わなさを抱えて生きている。


 にもかかわらず、ネットでは「完璧からの引き算」ばかりが行われ、「ここが足りない」と断罪される。
 これを批判している人たちは、そんな完璧な家庭人ばかりなのだろうか?
 それとも「自分のことはさておき、批判すべきものは批判する」のだろうか?
 

 僕はこれまでの人生で、「なんで私が女だからって、そんなことをやらなければならないの?」と普段言っている人が、違うシチュエーションでは、何の迷いもなく「男の子でしょ!もっと男らしく、しっかりしなさい!」と口にしているのをみてきました。
 僕自身も、「フェミニスト」には、程遠い。
 差別的な人間であってはならない、と意識すればするほど、自分の差別的なところを感じてしまう。


 こうやって、どこにも存在しないような「かりそめの理想の家庭」が当たり前のことにされていて、完璧ならざるものたちが、お互いの隙を責め合う世界って、きついよね、本当に。
 現実がダメすぎるから、ネットでは理想を語りたい、のかもしれないけれど、インターネットにも「ポリコレ疲れ」みたいなものは、確実に生まれてきているのではなかろうか。
 そもそも、「共感される生きづらさ」と「努力不足と責められる不器用さ」の境界線って、どこにあるのかな……


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