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いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「露出狂」か「いっちょ噛みしたい人」でないと、ネットで生き続けるのは難しい

 

nogreenplace.hateblo.jp

 

自己というのもリソースで、無限に湧いてくるリソースなんていうものはどこにもないと思う。自分を切り売りして何かを発信している人は、いつかネタが枯渇する。その時に余所にリソースを求めるのか、自己をもう一度育て直すのかはその人次第であるけれど、大体は枯渇したものは元に戻らない。そして枯渇したことに気が付かない人は結構多い。そもそも自己を切り売りしていた自覚すらないのかもしれない。そういう発信が増えることは恐ろしい。要は「どんなことを言っているのかわからないけれど発信している」状態の人が増えるということは情報の相対的な無価値化が進むことに他ならない。

 

 

 SNSや個人ブログのコンテンツって、ある程度コンスタントに更新し続けようとするのならば、結果的には「自分」しかないのだと思う。

 調べたことや研究結果などを書くことは不可能ではないけれど、日記は毎日綴ることができても、研究論文を毎日提示できる人はいないだろう。

 書き続けるには、自分自身のことか、自分というフィルターを通した世の中の事象をアップロードし続けなければならないのだ。

 極論すれば、「露出狂」か「いっちょ噛みしたい人」でないと、ネットで生き続けるのは難しい、ということになる。

 「嫌い」や「苦手」について語ると、反論のブックマークがついて人がたくさん来る、ということも少なくはないのだけれど、その状況に耐えられる人はそんなに多くはない。そして、そういう「釣り商法」みたいなものの大部分は、すぐに飽きられる。

 

 僕は世の中のいろんなことに疑問や不安を感じやすくて、自分をもてあましてしまうことが多い。

 そもそも、現実には100点満点なんてことはほとんどなくて、良いことも悪いこともある。将棋の羽生さんだって公式戦での勝率は7割くらいだし、プロ野球の優勝チームだって、全勝しているわけではない。勝ち馬投票券が全部当たる世界は、客観的には不気味だ。

 でも、現実は、カープが負けたら悔しいし、馬券が外れたら、「なんでリエノテソーロが来るんだよ!ダート馬じゃねえのかよ!」とかテレビの前で崩れ落ちてしまう。

 相撲でいえば、「9勝6敗の勝ち越しで十分」で、ギャンブルは「負けて当然、勝てばラッキー」くらいの心境であれば、ラクになるんだろうけどねえ。

 それは僕の未熟なところであり、「間違った完璧主義」であることはわかっているのだが、なかなか克服しきれない。

 好きも嫌いもたくさんあるのだけれど、長年のネット生活で、「嫌い」や「悔しい」を表出するとロクなことにはならないということを多少は学んだので、なるべく「好き」を語るように心がけている。

 

 

 世の中には、「好き」を語ることが、必ずしも他者を幸せにするとは限らない場合もある。

 去年の日本シリーズカープ日本ハムに2勝4敗で敗れたのだが、第6戦が終わった日、「日本ハムおめでとう!」がネットに溢れているのが、僕はとてもつらかった。「ざまみろカープ!」とか書いてあれば、それは苛立つのも道理だけれど、そうではない、純粋に本ハムの優勝を喜ぶツイートでさえ、見るのがイヤだった。

何かを好きになると、それによって至福の気分になることもあれば、自分にはどうしようもないことで傷ついたり、苛立ちを感じたりすることもある。

そこだけで完結してしまえば良いのだろうけれど、スポーツのチームや競技者の場合、対戦相手がいたり、順位がついたりするので、誰かが勝てば、誰かが負けることになる。

人と人が恋に落ちて付き合う、というのは幸せなことだろう。

だが、このカップルの男女どちらかにずっと憧れていた人がいれば(もちろん、そういうケースは少なからずある)、ひとつのカップルの成立によって、(一時的にでも)絶望を味わうことになる。

何かを選ぶというのは、往々にして、何かを選ばない、ということでもあるのだ。

彼、彼女が幸せならば、それでいい、それが本当の愛なのだ、と悟れれば良いのだけれど、実際は、なかなかそうはいかないよね。

そういうときに「自分の感情をうまく制御する」ことができる人が、大人なんだろう。

 

何も好きになったり、嫌いになったりしないで、ただ、淡々と自分の仕事をこなし、日常を送っていくことができれば、幸せなのではないか、と思うことがある。

それは、おそらく「不可能ではない」。

僕のこれまでの記録を読み返してみても、何かが好きだったり、期待していたりするからこそ、それが裏切られたときに失望したり、憤ったりしているのだ。

「趣味は何ですか?」と聞かれたときにどう答えて良いか悩んでしまうのは、読書くらいしか趣味がないのと、「『好き』は自分の弱点なのだ」と、考えてしまうから。

結局、自分を苦しめる原因をつくっているのは、自分自身で、何も好きにならなければ、何も嫌いにならなければ、世の中のことに「いっちょ噛み」してアピールしようとしなければ、凪のような心で日々を過ごせるのではないか。

そうして過ごしていくには、人生は長すぎるのか、退屈すぎるのか。

何も発信しないで、自分の存在をアピールしないで生きていくのは、一度その手段を持ってしまうと、難しいのか。

 

冒頭のエントリに、こんな文章がある。

 

こういったSNSに迂闊なことを載せてしまう人は、「見られる」という視点がごっそり欠けているんじゃないかなぁと思う。「見られる」ということは自分を切り売りするということになる。その辺の覚悟があってテレビに出ている芸能人と一般の人の違いがその辺で、自分を切り崩した結果自分がわからなくなる人って多いと思う。

 

 

 

 本当にその通りだと思う。

 「見る側」として考えると、インターネットの個人サイト・ブログの初期に感じていた「新鮮さ」というのは、そういう「中途半端な覚悟しかない(あるいは、何の覚悟もしていない)人間が、勢いで、あるいは、なんとなく書いてしまったような言葉を読むことができたこと」だった。

 そういう時代は、もう、過去のものなのだと考えるべきなのだろう。

 

 僕はこの年齢になっても、ときどき、「このまま何もできずに死んでいくのかな」なんて思うことがある。

 でも、自分にできること、やりたいことは「何」なのかわからない、あるいは、そこまで突き詰めて悩もうともしていない。

 たぶん、「自我」みたいなものが発見されて以来、ほとんどの人は、こんな感じで、いつの間にか命を終えていたのだろうな。

 

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