いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「父の死をSNSに投稿した夫が許せない」という人に「切り捨てること」を勧める人々

togetter.com


ゴールデンウイーク明けにこういうのを読むと、五月病が悪化するような気がする、すみません。


最近つくづく思うのは、お金をもらっているわけでもないのに(あるいは、お金が主な目的ではないのに)、個人ブログをやったり、SNSにマメに投稿したりしている人というのは、お金目的の人より、ある意味「依存している」のではないか、ということなんですよね。
身内のことをネタにするのは、基本的に望ましいことではない。
椎名誠さんの『岳物語』は名作だけれど、息子さんからは「もう自分のことは書かないでほしい」と抗議されたそうです。
それで、書かなかった娘さんのほうは、「自分はあまり構ってもらえなかったのではないか」となんとなく壁ができてしまった。
一度「書く人」になってしまうと、書くのにも、書かないのにも、それぞれ邪推みたいなものが入り乱れてしまう。
だからといって、社会の出来事を書こうとすると「詳しくないことにも『いっちょ噛み』しなくては気が済まない中年男」が一丁上がり。
どっちに向かっても、あんまり良いことはない。
むしろ、「お金のために、自分自身には興味のないアフィリエイト記事を濫発する人」のほうが、合理的なのかもしれません。
まあ、読む側としては、そういうのばかり目にするのは、イヤなんですけど。


この「父の死をSNSに投稿した夫が許せない」という話なのですが、まあ、僕だったら、リアルタイムではやらないと思います。
しばらくして落ち着いたあとに「そういうことがありました」と触れることはあるでしょうけど。
それが正しいかどうかはさておき。


ネット上では、有名人の訃報に対しては、追悼記事が溢れるし、自分がずっと飼っていたペットが死んでしまったということを書く人はたくさんいます。
それに対して、「それはペットに失礼」と言う人はいないわけですが、こういうのはペットは人間じゃないから、というより、当事者が心をこめて書くのであれば、比較的受け入れられやすい、ということなのかもしれません。
人間の訃報であっても、身内が故人の思い出話をお通夜の席で語り合うように書けば(そして、写真などをアップロードしなければ)、さほど、抵抗は感じないような気もします。
そう考えると、「義理の親」というのは、「実の親」とは違うものだ、というのが世間一般の理解であり、「違う」のであれば、その死に対する反応が「よそよそしい」のも致し方ない面がある、と考えるべきなのか、だからこそ、よりいっそう注意を要する、と考えるべきなのか。


まあ、後者なんでしょうけどね、いろいろ波風を立てないためには。


SNSをやっていると「キジも鳴かずば撃たれまい」と思うことが多々あるのですが、別の場所では、僕もまたキジとして鳴いている。
そもそも、「発信」することそのものがリスクではあるのです。
ただ、この冒頭の夫の場合、「リアルタイムで、かつ、わざわざベビーカーを押す妻の写真を添付して」というのは「演出的」であり、「ネタにしてしまった感じ」が強いですよね。これは精神的に参っている妻側としては、かなり「カチンとくる」はずです。
ベビーカーに乗せなければならないような子どもがいるとなれば、育児にともなう疲れも当然あるでしょうし。
書かれているコメントそのものは、「合掌。義父急逝」ですから、業務連絡的なものだし、読んだ人も(こういうのって、少なからずありますから)、「御冥福をお祈りします」と反応するくらいしかできないでしょう。


でもなあ、僕は(こういうのをいちいち書きたくなるのが、ネット発信依存の一症状です)、人というのは、身内の死というような非常事態に直面したとき、気が動転してしまって、理不尽、あるいは、非常識な行動をとってしまうことがあるので、あまり悪いように考えないほうが良いのではないか、と思うんですよ。


b.hatena.ne.jp
冒頭のエントリに寄せられたコメントとか、このはてなブックマークコメントとかを読むと「もうアウト」「離婚」「夫には思いやりの心がない」と厳しい意見が多いようです。
逆に「仕事を休むことになるのなら、業務連絡的にSNSに書くのは問題ないのではないか(でも写真はちょっと……)みたいな反応もあるのですけど。


僕はこういうのをリアルタイムで書くべきではないと思うし、わざわざ配偶者の写真を添付するのは不快なのですが、こういう「何か画像をつけないと落ち着かない病」みたいなのに罹患しているSNS好きの人っていますよね。


少し前に、「遺影や遺体を携帯のカメラで撮影する人たち」の話が話題になりました。
遺影に関しては、僕はいかりや長介さんの遺影のカッコよさがものすごく印象的で、テレビを通じてでも見ることができて良かった、と思っているんですよね。
遺体に関しては、「個人的にとっておく」のであれば、それはもう、個人の信条の話でしょう。拡散すべきではないけれど。


ただ、この投稿は、家族にとってのひとつの出来事でしかないし、おそらく夫側に悪気はないはずだから、このひとつの出来事だけで「即離婚」なんて断絶を推進するのはあまりにも性急に過ぎると思うんですよ。
「ああいうのはやめてくれ」と話せば、かなり高い確率で、理解してもらえるはずですし、世代やSNSへの親和度によっても、考え方は違うのが当然なのです。
それはそれとして、なんとか折り合いをつけていったほうが、生きやすいと思うんですよ、お互いに。
気に入らないことが起こるたびに「もうダメだ」「致命的な価値観の差だ」って、周りの人を切り捨てていくことを勧めるのは、「孤高の人」ばかりを増やすことになるのではないか。
ネットで声高に意見を述べる人たちの中には、ことさらに断絶を煽るような物言いをする存在がいて、そういうのが人気コメントになりがちです。
この投稿者は、「父の死のショックや一人暮らしの母を思う不安を、夫への怒りにすり替えているのかもしれませんが、切り離して考えられません。夫を見ると緊張し、攻撃的になってしまいます」と書いておられます。
自分でも「感情が不安定な状況なのではないか」と客観的に見ているところもあるのです。
ベビーカーに乗せなければならない子どもがいれば、育児の負担も大きいでしょうし。
これって、夫側からみれば、(SNSのことはとくに悪気はないとして)「最近、妻がやたらと攻撃的で、ことあるごとに苛立ちをぶつけてきてつらい……」という状態にも思われます。
夫側としては「お父さんが亡くなって、まだ混乱しているのだからと考えて、辛抱している」のかもしれません。
夫側も、キツいですよこれ、かなり。


fujipon.hatenablog.com


僕も自分の父親が亡くなったときに親戚から言われて、ずっと心に引っかかっていることがあって。
20年くらい経って、ようやく、「人の死に直面すると、普通ではいられなくなるのは、自分だけではないのだ」ということが、理屈としてではなく、実感としてわかるようになった気がします。
人の感情って、「憎い、嫌い、これはダメ、と思いはじめると、すべてを悪いほうに解釈してしまう」っていう傾向があるのです。
大きな悲しみや心配事に心がとらわれているときには、なおさら、そうなりやすい。
ネットでは極論ばかりが浮かび上がりやすいのですが、親しい友人や身内に相談してみると、たぶん、「考え方や価値観の違いはあるかもしれないけれど、できることなら、ちゃんと問題を相談して、うまく折り合いをつけてやっていったほうがいい」という答えになると思うのです。
ネットでの人生相談の回答って、「極論」と「大喜利」と「うまく言ったもの勝ち」になりがちで、相談している人のメリットになることって、ほとんど無いから。
(僕自身は、「人生相談」なんて他人にすることはほとんどないんですけどね。だからあんまり相談されることもないんだろうな)


fujipon.hatenablog.com


村上さんのところ

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村上さんのところ コンプリート版

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オタクの息子に悩んでます 朝日新聞「悩みのるつぼ」より (幻冬舎新書)

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