いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「ネットでの自己実現・お金稼ぎ志望」というのは、「ギャンブル依存」と同じ仕組みなのかもしれない。

www.nikkei.com


カジノカジノって言うけれど、実際のところ、世界レベルでもカジノを含む新規リゾート開発でうまくいっているところって、最近ではマカオくらいしかない、というのを聞いたことがあります。
そもそも、こんなに街中に22時過ぎまで毎日開いているパチンコ屋があり、ネットで公営ギャンブルも買いまくることもでき、ソーシャルゲームのガチャというライバルも存在する日本という国で、いまさらルーレットやバカラやポーカーでディーラーや隣に座っている人とお金をやりとりする「厳しさ」みたいなものに魅力を感じる人が、どのくらいいるのだろうか。
僕はラスベガスやマカオにも行ったことがあるんですが(ギャンブルが主目的ではなかったけれど)、人間相手のものは煩わしいし、スロットマシーンは全く当たる気がせず、これなら「超大当たり」はなくても、それなりに勝てる可能性があって演出も楽しめるパチンコのほうが面白いんじゃないか、と思ったんですよね。
いやもちろん、「社交場としてのカジノ」を求めている人はいるし、対人ゲームのほうが「人生での負けること、そして自分が負けたときにどうなるかを知るためのトレーニング」になるというのはあるんですが、僕も含めて、大部分の人は貴族でも石油王でも大富豪の創業者一族でもありませんからね……
まあ、一般的にいえば、「ギャンブル」には、遊び半分でも関わらずに生きたほうが安全なのは間違いありません。
というか、みんな遊び半分ではじめて、ハマっちゃうわけですし。


というようなことを思いつつ、「ギャンブル」について、これまで書いたものをいくつか読み返してみたのです。

fujipon.hatenadiary.com
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われながら、なかなか良いことも良くないことも、けっこう書いてきたなあ、と遠い目をしつつ(残念ながら、良くないことのほうが多いけど)。

読み返していると、この3つめの『ギャンブル依存症』という本の感想のなかに、こんな記述がありました。

 あの大王製紙の元会長・井川意高さんが「ギャンブル依存になってしまった理由」について、著者はこんな推測をしています。

 通常、多くの人は。こつこつとスモールステップをクリアしながら人生を歩んでいきます。テストでいい点を取って褒められる、仕事で契約を取る、などといったことがまさにそうです。
 そのたびにドーパミンが出て快感を覚えて、その成功体験からまた努力を続けることができるのです。
 しかし、褒められることや成功体験がなければ、自尊心が育ちにくくなるだけではなく、健康的なことでドーパミンを出すという経験ができず、良い記憶が定着しません。
 つまり、テストで良い点を取る、受験で合格する、仕事で難題をクリアする……といったスモールステップをクリアできたときなどにでも「素直に喜んではいけない」と思うようになってしまいます。
 ところがそうして育ってきた人がギャンブルで勝つと、驚くほどのドーパミンが出ます。それが普段味わったこともない感覚なので、快感に酔いしれます。そのギャンブルによる快感の記憶が、ギャンブルを繰り返しているうちに定着してしまい、ハマってしまうのです。
 つまり、褒められたり、自分に満足することに慣れていなかった弊害だとも言えるのです。


 これはあくまでも著者の推測ではあるのですが、井川さんのお父さんは大変厳しい人で、「父からの拳を受けながら、涙ながらに必死に勉強していた」そうです。
 良い大学を出て、立派な経営者であったとされる井川さんが、なぜ、ギャンブルなどという「くだらないもの」にハマってしまったのか。それは、「ギャンブルで勝ったときだけが、自分を素直に肯定できる瞬間だったから」なのだろうか……
 著者によると、「ギャンブル依存症患者は、日ごろはちゃんとしている人が多いし、エリートも少なくない」とのことです。
 あまりにも子供に厳しくしすぎて、常に「油断するな!」と言い続けるのは、危険なのだな……


 今、読み返してみると、「個人ブログでPV(ページビュー)稼ぎに邁進し、お金を稼いでいることを猛アピールする人」とか、「高偏差値大学を出て、『自由に生きる』と宣言し、炎上を恐れずに世間を煽りつづける人」って、「褒められることや成功体験に乏しい人が、ふとやってみたギャンブルに勝ってドーパミンがドバッと出る体験をしてしまった」というのに近いのではないか、って思えてくるんですよ。
 

 それが普段味わったこともない感覚なので、快感に酔いしれます。そのギャンブルによる快感の記憶が、ギャンブルを繰り返しているうちに定着してしまい、ハマってしまうのです。


 彼らは「お金が欲しい」のだと僕は思っていましたし、彼ら自身も「それでお金を稼いで生きて、何が悪いんだ?」と主張しています。
 それに対して、多くの人が「お金を稼ぎたいのなら、会社勤めをしたり、アルバイトをしたりしたほうが安定して、もっと大きな金額を稼げるんじゃないか?」という疑問を抱いてしまうのです。
 実際に、ごくひとにぎりの、ものすごく稼げる大成功者を除けば、その通りなんですよね。


 あらためて考えてみると、彼らを本当に動かしているのは「お金」じゃなくて、「ギャンブルによる快感の記憶」じゃないか、と思えてくるのです。
 行動に対してすぐに結果が出て、「満足感」を得られる。
 たしかに、ネットで何かを発表するのには、そういう抗い難い魅力がある。
 それは、僕自身も体験してきたことなので、認めざるをえません。
 ここには、普通の人生ではなかなか得られない「突発的・衝動的な快感」があるのです。


 だから、「そんなことやっても稼げるわけないのに」というのは、アドバイスとしては、たぶん効果がない。
 ギャンブル依存者に「そんなの勝てるわけないよ、胴元だけが儲かる仕組みになっているんだから」って言ってもやめられないのと同じです。
 東大を出た有能な経営者の大王製紙の井川さんだって「やめられなかった」のだから、そう簡単に理論武装で「卒業できる」わけないんですよね。


 今の世の中、そして、ネット社会って、あまりにも比べる対象が幅広く、奥深くなってしまって、「褒められる」「自分で自分を認めてあげられる」機会が少なくなったような気がします。
 まだまだ上がいる、油断するな!
 お前なんか、縁日の将棋大会で子供相手になんとか勝てるくらいの実力しかない!
 育児も仕事も家事も完璧にこなして、社会で「輝いている」女性もいる!
 なんだ、就職決まったっていっても、外資系の一流企業じゃないんだ……


「依存」って、簡単にやめられるものじゃないんですよね。
 ただ、人というのは、何かに多かれ少なかれ「依存」しながら生きているものではないか、とも思うのです。
 それが「仕事」や「家族」や「スポーツやアウトドアのような趣味」であれば「良性」(というか「生きがい」とポジティブな解釈をされることが多い)、「ギャンブル」や「タチの悪い宗教」や「アルコール」だったら「依存」として問題視されてしまう。
 「何かに依存しなければならないのだとしたら、なるべく害の少ないものに転換していく」ということもひとつの考え方ではあります。
 僕はパチンコにハマっていたとき、なるべく映画館に行くようにしていました。
 少なくとも、その間はパチンコ屋に足を向けずに済むし、その習慣というかペースが乱れると、案外、まっすぐ家に帰れるようになったのです。
 まあ、「もともと、その程度の依存でしかなかった」という話でもあるのですが。
 あと、子供が生まれてからは本当にパチンコ屋には足を向けなくなりました。
 それだけでも、子供には感謝せねば。


 正直、「ネット依存」「ネットでの自己実現・お金稼ぎ志望」みたいなのって、どこまで「悪性」なのか、難しいところではあるんですよ。
 ギャンブルやアルコールよりははるかに健全な気はします。
 もし、彼らがネットから離れたら、そっちに行ってしまうのだとしたら、彼ら自身にとっては「くだらないゴミをインターネットに撒き散らしている」ほうが、はるかにマシなのかもしれません。
 むしろ、それまでの依存対象によっては、ネット依存に「転換」したほうが良いケースも少なくないように思われます。
 ただ、僕も患者のひとりとして考えてみると、「少なくとも、本人の成長にはあまり繋がらない」のは事実なんですよね。
 「成長しなければならない、という世の中からのプレッシャー」がこういう状況を生んでいるという面はありそうなので、堂々巡りになってしまうのだけれど。


熔ける 大王製紙前会長 井川意高の懺悔録

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ギャンブル依存とたたかう(新潮選書)

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