いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「正しすぎることは、間違っていることと同じだ」

参考リンク:NHK大河ドラマ『平清盛』第37回 2012.9.23放送「殿下乗合事件」あらすじ


昨日の『平清盛』を観ていて、なんだかすごくモヤモヤしてしまったので書いておきます。


平家の動きをいまいましげに見ていた摂政・基房(細川茂樹)。ある日、基房は平家を陥れる機会を手にする。京の橋で鷹(たか)狩りから帰る途中の重盛(窪田正孝)の嫡男・資盛(すけもり・大西健誠)と鉢合わせした基房は、因縁をつけて従者たちに資盛を襲わせる。礼儀を重んじる重盛ならば、わが子が辱めを受けても摂政の基房には復しゅうすることはないと計算しての犯行だった。
基房の予想どおり、重盛はこの事件について礼節を欠いていた資盛を叱るのみだった。時子(深田恭子)は、平家と藤原摂関家の一大事であり、訴えるべきだと主張するものの、重盛は聞き入れない。このことを知った福原の清盛や盛国(上川隆也)は、重盛らしい公明正大な裁断だと評するが、その場にいた時忠は正しすぎることは間違っていることと同じだと非難した。


上記はNHKの公式サイトの「あらすじ」の一部。
僕は学生時代、クラブでキャプテンらしきものをやっていたことがあって、そのときに自分で意識していたのが「とにかく公正に」「自分の好き嫌いで判断しない」だったのです。
先輩がそれぞれ自分と縁が深い後輩をかわいがって「派閥」をつくっていたように、当時の僕には見えていたので。


でも、この方針でのクラブ運営は、なかなかうまくいかなかった。
歴史的な話や、他人事としてみると「公正である」というのは掛け値無しに良いことのように見えるのだけれども、現実はそんなに甘くはないのです。
実感したのは、「人間は、公正さで誰かを支持するわけではない」ということ。
いや、自分に直接関係のない範囲では「公正さ」を高く評価するのだけれども、直接自分にかかわることであれば、「自分に良い目を見せてくれる人」を支持することが多いんですよね。
自分が困っているときに「それは相手のほうが正しい」と突き放すタイプのリーダーよりも、「おまえが困っているなら、おまえが多少間違っていても、なんとかしてやる」と助け舟を出してくれるほうに、惹かれるのは当然といえば当然のこと。


敵は「公正であること」につけ込んでくるし、味方は「公正であること」に対して物足りなさを感ずにはいられない。
理念としては「公正さ」というのは素晴らしいことなのだけれども、それを機能させようとすれば、その人自体が「人間であること」を捨てて、「組織を運営するための機関」に徹するしかない。
でもまあ、そんなことができる人というのは、世の中にはほとんどいないし、そういう人のことを理解できる人間も稀少なのです。


重盛はどうすればよかったのか?
こういう行為の積み重ねが「平家にあらずんば人にあらず」という「驕り」を生み出していき、平家滅亡につながっていったのでしょうが、あの場面での重盛の振る舞いとしては、「公正さ」は一族に不満を与えたり、貴族たちからなめられたりする可能性もある。


歴史を学ぶと「何が正しかったのか?」「こうするしかなかったのか?」って考えることがよくあります。
「理念としての正しさ」と「現実での正解」って、ときには正反対のこともあるんだよなあ。
平清盛の時代から、人は同じようなことで悩んでいて、結局、うまくやれる公式は導かれていないのです。

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