いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「生きづらさ」の増幅装置としての、映画『ジョーカー』の功罪

※このエントリには、映画『ジョーカー』のネタバレが多数含まれています。映画を未見のかたは、ぜひ、映画館で観てから読んでください。いや、映画を観ていただければ、このエントリなんて読まなくてもいいです。



gendai.ismedia.jp

この記事を読んでいて、僕は映画『ジョーカー』の感想や評論に関して、ずっと抱えていた「すっきりしない感じ」の正体の尻尾くらいは掴めた気がしたのです。

アーサーはまるで「鏡の男」だ。見る人の心情をそのまま映し出す。「生きづらさ」を感じない人であれば、彼はたんに不器用で運が悪く、そして才能がないがゆえに成功できなかっただけであるにもかかわらず、社会へとお門違いな逆恨みを抱えた人間のように見えるかもしれない。

だが、なんらかの「生きづらさ」を抱える人にとっては、アーサーの苦しみのどれかが、きっと心に突き刺さってしまう。まるで自分のことのように感じられる。ああ、アーサーは私のことだ。私がいつも感じている日常だ。彼を苦しめるものは、私にも身に覚えがあるし、しかもこの社会にありふれたものだ──と。事実として、アーサーの物語に我がことのように共感する人と、挑発的に犯罪を称揚する不道徳な映画だと酷評する人とで、評価は二分している。


 僕がネットで観た感想の6~7割くらいは、ジョーカーの生きづらさに理解や共感を示したもので、2~3割は「これはピカレスクロマン、エンターテインメントであって、あまり政治的な主張を読み取るべきではない」というもの、「なんだか胸糞悪い、興味が持てない」というものは、1割にも満たない、という印象です(ちゃんとデータを取らず、印象で書いていて申し訳ない)。
 
 この映画でのアーサー(=ジョーカー)について、ネットでは「生きづらさに追い詰められた人間の行動としては理解できる」「こんな社会や金持ち連中は、ぶっ壊されても致し方ない」という人と、「こんなふうに、生きづらい人たちを蜂起させるきっかけになるような行為を描いた映画を大々的に公開しても大丈夫なのだろうか?」という「評価の二極化」がみられています。

 僕が不思議だと思うのは、「アーサーの生きづらさは理解できるのだけれど、だからといって、人を銃で撃ったり、母親を絞め殺すのは、やりすぎだ」という感想をほとんど見ないことなのです。

 1970年代前半生まれで、「平和教育」を受けてきた僕にとっては、それが「模範解答」のように思えるから。

 もちろん、ネットでは「ありきたりな意見や感想」は話題にならず、埋もれてしまいがちなのだけれども。

 正直、あの地下鉄で、3人のエリートサラリーマンから暴行される場面では、「僕でも銃を持っていたら、あいつらを撃つだろうな。あれは正当防衛だろう」と思ったのですが、マレーを撃ったことに関しては、「自分を縛っていた規範=父親殺し」という「解釈」はできるけれども、撃たれた側にとっては、「なんで俺?」としか言いようがないと思うのです。

 トーマス・ウェインについても、「あんな弱者の気持ちがわからないような金持ち野郎は、暴漢に刺されてもしょうがない」という方向に、この映画を観ていると引きずられてしまいそうになるのです。

 では、トーマス・ウェインは「悪」なのか?
 いけ好かない富裕層ではあるけれども、トーマスは、彼なりにゴッサム・シティを良くしようとしている。
 金持ちが「貧乏人をかえりみない」という理由だけで「殺してもいい」ことになってしまうのは、それはそれで理不尽ではなかろうか。
 マレーにしても、「鈍感」ではあっても、「悪」ではないと思う。


 アーサーの「生きづらさ」に共感するところはあるし、看板を悪ガキどもに奪われた「責任」もすべて押し付ける上司はひどい。でも、あの上司だって自分があの看板を弁償するのはキツイはず。
 僕が病院のスタッフだったら、小児科病棟へ慰問に来て、拳銃が転げ落ちるようなコメディアンを「仕方がないね」と許すのは難しい。
 カウンセラーだって、自腹でカウンセリングを続けることはできない。
 
 僕はホアキン・フェニックスさんの演技はすごいと思ったけれど、アーサーに共感したというよりは、あのゴッサム・シティという環境の閉塞感に取りつかれてしまった。

ジョーカーとなったアーサーは自らを公衆の面前で嘲笑した男に、こう問いかける。

マレー、喜劇とはなんだと思う? それは結局のところ主観に過ぎない。善悪だってそうだ。なにがただしく、なにが間違っているかを決めているのは主観だ。


 他人の都合でつくられた価値観にしたがって、ずっと踏みつけられたり、無視されたりして生きるのは嫌だ。
 そう考えるのは、理解できるのです。

 しかしながら、「俺は俺の主観や欲望に従って、どんなに他人を犠牲にしても、やりたいことをやる」という人間ばかりになったら、世界はどうなってしまうのだろうか。
 そもそも、「無敵の人」と戦う(あるいは、彼らに出くわす)というのは、ほとんどの人にとっては「割に合わない悲劇」でしかない。
 
 
 映画館のなかでは、みんなアーサーに「共感」してしまうけれど、日常において、観客の大部分は、アーサーでも、トーマス・ウェインでもなくて、顧客からのクレームに頭を悩ませるアーサーの上司だったり、アーサーの妄想に警戒感を抱く近所の女性だったり、仕事は山積みなのに暮らし向きはよくならないカウンセラーだったりするわけです。


 相手が生きづらい人であれば、何をされたって許せる。

 ……そんなわけない。


「どんなに生きづらくても、我慢して少しずつでも改善を目指す」と、既得権者に食い物にされ、ずっと我慢を強いられる。
 でも、「俺たちを無視するのなら、片っ端からこの世界を破壊してやる」と宣言し、行動すれば、既得権者から、徹底的に排除される。もう、「戦争」しかありえなくなってしまう。

 実際は、多くの人が、もっと穏健な方法で、地道に世界と戦っているのです。
 まあでも、「日暮れて、道遠し」だよなあ。

 僕は『ジョーカー』は、すごい映画だと思っています。
 でも、ジョーカーに過剰に感情移入するのは、昔の極道映画を観たあとで、映画館から肩を怒らせて出てくる人と似たようなものではないか、とも感じます。

 もちろん、この映画はフィクションだし、「ガス抜き」になるのかもしれません。
 多くの人は(とくに銃所持が困難な日本では)、いきなり銃をぶっ放すことはないでしょう。
 それでも、車で暴走したり、刃物を振り回す人たちが過去にはいて、一部には、彼らを信奉するような動きもあるのです。

 正直、この映画のアーサーをみていると、「僕も同じ状況だったら、こうなるかもしれないな……」と思うんですよ。
 それが、この映画の凄さであり、怖さでもある。

 だからこそ、僕は言っておきたい。
「この映画はフィクションだし、あなたの(僕の)生きづらさを、アーサーに過剰に投影するべきではない」と。


theriver.jp


 劇場に警察官の出動が相次いでいる、というアメリカに比べれば、ブログに映画の感想が溢れているだけの日本は、この作品を冷静に受けとめている、とも言えそうですけど。

 
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