個人的には、岡村さんが自暴自棄になって、ラジオ番組や芸能界を投げ出す、ということにならないでほしいな、と思っていました。
あの発言はひどすぎるけれども、僕は岡村さんのことが、かなりめんどくさい人みたいだというところも含めて、けっこう好きなので。
矢部さんの「公開説教」については、賛否両論(僕の印象としては、7対3くらいで「賛」が多いかな)なのですが、かなり厳しい言葉が並んでいたけれど、僕には歌舞伎の『勧進帳』の一場面のように聞こえていました。
岡村さんにとって最も近い存在で、岡村さんの病気休養のときにはナインティナインの存続のために尽くした矢部さんが、あえて、岡村さんを厳しい言葉で「説教」したのは、「ここで岡村さんを徹底的に責め、反省を促せるのは、その『コンビ愛』で知られている相方しかいない」という使命感があったのだと思います。というか、ここで矢部さん「までも」きつく岡村さんを責めることによって、周りは「相方にまでここまで言われたのなら、とりあえず矛を収めようか」という気分になりやすいですよね。
会社でミスをした社員と取引先に謝りに行くとき、一緒に行った上司が、まずその社員を強く叱責する、というのが「丸くおさめる技術のひとつ」だという話を聞いたことがあります。人って、自分が怒ろうと思っていても、その相手が先に他の人にきつく怒られてしまうと、「まあまあ、今回はそのくらいで……」とバランスをとるほうに向かいやすい。
矢部は「自分のホームで20年以上やっていて、リスナーも全員大好きよ、岡村隆史を。みんなイエスマン。オレもそうやけど、注意してくれる人が少なくなってきているから、自分で気をつけなアカンと思う」と指摘。「岡村隆史が女性に対して軽視しているとか、致命的やと思う。ちょっと景色を変えた方がいい」と呼びかけると、岡村は深くうなづいた。
矢部さんは、岡村さんのことをよく見ているんだな、と思いました。
そして、僕は岡村さんと同じくらいの年齢なので、「自分のホームだから大丈夫、という過信」の怖さもあらためて認識したのです。
26年前のラジオの深夜放送なんて、無法地帯、といったら言い過ぎなのかもしれませんが、「深夜で、若者かファンしか聴かないから、多少のエロや過激な発言は大ごとにはしない」という雰囲気ではありました。
ナインティナイン、そして、岡村さんは、そういう時代の「深夜ラジオ」を受け継いできたのです。
fujipon.hatenadiary.com
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この1981年の『ビートたけしのオールナイトニッポン』の「金属バット両親殺害事件」を踏まえてのトークなんて、2020年だったら、絶対に「アウト」でしょう。いや、1981年の時点でも、たけしさんのオールナイトは、「これ大丈夫なのか?」と子供心に思ってはいたのですが。
何度かここでも書いてきたのですが、近年、メディアがネットの記事として、「テレビやラジオの番組で、芸能人が話したことを、そのままニュースにして流す」ことが増えています。
それだと、ちゃんと取材をして記事を書くよりも簡単に書けるし、手間の割にはPV(ページビュー)も多くて助かる、ということなんでしょうけど、そのおかげで、「いろんなコンテンツの『暗黙のゾーニング』が崩壊している」のも事実です。
岡村さんは、これまでも自分のオールナイトニッポンでの発言がネットニュースで採り上げられていたのを知っていたはずですから、今回に関しては擁護しようもないのですが(そもそも発言の内容が酷すぎますし)。
ただ、このやりとりに関しては、正直、考え込んでしまったんですよ。
矢部は続けて「わざとじゃなくて、天然なんやろうな。コーヒー持ってこられてありがとうがない。コンビの仕事も少ないけど、たまにすると、そういうのが余計に入ってくる。『そんなこと言うか』と。昔は気づかなかったかもしれないけど、たまに会うから、恋愛の番組で結婚のうまくいく秘訣を聞かれて、ありがとうとごめんなさいを言う、といったら『白旗あげたんか』と。女性を敵としてみているのか」と岡村の言動を冷静に叱責。
矢部は「コンプレックスもあるからな、その相手も知ってるから」と岡村に語りかけながらも「結婚して子供がいたらチームやと。お母さん監督でいっぱい褒めていっぱい怒って。こっちは冷静にその様を見ていて、ありがとうとごめんなさいが大事だと身にしみてるから。それを『白旗』って。それって性格やねんな。根本の。テレビのカメラが回ったら言わへんのやろな。ラジオっていうホームだから」と話していった。
この「白旗あげたんか」に、矢部さんはカチンときたのだと思います。結婚生活というのは、いろんな摩擦や諍いが起こりがちですから、そんななかで、なんとかやっていこうとして苦労しているのに、と。
でも、この「白旗あげたんか」って、岡村さんにとっては、半分くらい「リアクション芸」のつもりだったのではないか、と僕は考えています。
逆に、矢部さんの「正論」に「そうやなあ」と岡村さんがうなづいているだけのコンビだったら、ナインティナインはここまで売れていただろうか。
岡村さんという人間の異性関係や恋愛、結婚に関するこじらせ具合は、多くの人が「前提条件」として知っていて、こういうひねくれたというか、ある種の諦めや投げ出しっぷりのほうに共感する人は、けっこうたくさんいるのではないかなあ。
ラジオという閉鎖された(はずの)場所で、ファンと「共犯関係」を築いていたはずなのに、その「男子校(あるいは男だけの飲み会)トーク」が、万人に向けて公開されてしまった。
こういう「異性には聞かせられないトーク」って、たぶん、女性同士でもあると思うんですよ。「他言しない」という前提の。
それがすべて「悪」だとまでは言えない。ガス抜きというのが必要な人、こともあるのでしょう。
ただし、内部に裏切り者がいて、「〇〇さん、この間、飲み会で××さんのこと、こんなに酷く言ってましたよ!」と告げ口されてしまえば、もう「仲間内での話だから」では済まなくなります。
いまは、恋愛や家庭のありかたは、かなり自由になってきているし、選択肢も増えた。
でも、「なんでも正しいということは、何も正しくない時代」なのかもしれない。
ナインティナインと同世代の僕は、勤務医の父親と専業主婦の母親をみて育ってきました。
「家庭とはこういうものなのか」と思っていた僕は、自分が親になってみて、「家庭」とか「夫婦」というものが、自分の子どもの頃のイメージとあまりに違っていることに、困惑しつづけているのです。まあでもたぶん、人間って、とくに近代以降はずっとそんなもので、比較的日本が自由で民主的だった大正時代に子ども時代を過ごしてきた人たちが、その20年後に「ぜいたくは敵だ」「鬼畜米英」と叫び、子どもを戦場に送り出していったことを考えれば、十分「適応できそうな変化」ではありますよね。僕にはなかなか難しいけれども。
あんなに人気があって、お金も稼いでいるのに、なかなか結婚もせず(というか、今の世の中でものすごくお金があってモテる人は、「結婚」という形式にこだわる必要はないのではないか、とも思うけど)、風俗通いをしている岡村さんに、リスナーは「共感」していたし、それを岡村さん自身も感じていた。
そして、自分のそういうダークサイドをラジオで表明することによって「やっぱり岡村はこっちの味方だ」と思われたかった。
こういうのって、周りは「そんなふうに率直なところがいい、もっとやれ!」と煽りに煽ったあげく、一線を超えたとたんに「調子に乗るな!」となりがちです。
風俗嬢に関しても、岡村さん自身は「一方的な仲間意識」みたいなものがあったのではなかろうか。「うまく生きられないもの同士」みたいな。そういうのは、利用者側が勝手に押し付けている幻想なのだろうけど、リアルの恋愛や人間関係がうまくいかない、打ちのめされてばかりの人が、二次元に癒しを求めるのと同じ構造のようにも思われます。
そして、二次元のキャラクターはそう簡単には怒らないけど、生身の人間は、怒るときは怒る。
ただ、誤解すべきではないのは、なんらかの代替としてではなく、心底リアルよりも二次元のほうが良いという人もいる、ということです。そういうことまで考えていくと、「恋愛」と「趣味嗜好」の境界なんて、もう、存在しないのかもしれない。
人は「ここは自分のホームだ」「みんな自分の味方だ」と思っている場所では、自分を律する気持ちが緩み、ガードが甘くなりやすい。
家庭内でのさまざまな問題や、「家庭的な小企業」でのパワハラなどは、そういう「過信」から起こりがちです。
ネットの「炎上」もそうだよね。僕も身に覚えがありすぎる。
なんというか、人に愛されること、応援されることを仕事にするっていうのは、本当に難しいな、と考えずにはいられません。
もうひとつ言っておくと、岡村さんの発言は責められてしかるべきとしても、ここまで人格を否定されるのは厳しすぎるようにも思うのです(おそらく、矢部さんは「厳しすぎる」とみんなに思われるように、あえて岡村さんを追い込んでいたのでしょう)。
誰にでも礼儀正しく、優しい人間であるほうが良いに決まっているのだけれど、そういう「ふつうの人にとっての生きやすくなる能力」が欠けた人間がある程度受け入れられやすいのが「芸人」ではないか、とも僕は思うのです。
この本の著者である映画監督の押井守さんは、「友達なんて必要ない」と、この本のなかで高らかに宣言しておられるんですよね。
僕には友達と呼べる人はいないし、それを苦にしたことはない。年賀状にしても、こちらから出すのは毎年ふたりだけ。師匠ともうひとり。さすがに出さないと失礼と思われる大先輩のふたりを除いて、年賀のあいさつを出す相手もいない。
だから、正月にうちに配られる年賀状はどんどん減ってきた。それでもいいと僕は思っている。他人とのコミュニケーションは、こんな僕でも大事だ。いや、多くの人の才能に支えられて映画を作る僕のような人間には、コミュニケーションほど大切なものはない、と言ってもいいだろう。
だが、それはあくまでも映画を作るという目的があってのことだ。もしも僕がたったひとりでも映画を作ることができるなら、ひとり家にこもって誰とも交わらず、黙々と作業をするだろう。
だが、実際にはそんなことはできるはずもない。だから、僕は他人を必要とする。他人を必要とするから、他人と一晩でも二晩でも、相手に自分の考えを納得してもらえるまで、とことん話す。
その過程で、その人とどんなふうに付き合えばうまくやっていけるかを真剣に考える。仕事仲間になるのだから、映画を作る数年の間は、その人とうまくやっていきたいと自然に思うから、そうするだけのことだ。
逆に、話す必要もない相手とは話さない。僕は別にお友達がほしいわけじゃないからだ。友人なんてそんなもの、と思ってみれば、友人関係であれやこれやと悩むこともバカらしくなってくるはずだ。
だから、若者は早く外の世界へ出て、仕事でも見つけ、必要に応じた仲間を作ればいいと、僕は思っている。ただ、そばにいてダラダラと一緒に過ごすだけではない仲間がきっと見つかるはずだ。
損得勘定で動く自分を責めてはいけない。しょせん人間は、損得だけでしか動けないものだ。無償の友情とか、そんな幻想に振り回されてはいけない。
そうすれば、この世界はもう少し生きやすくなる。
「能力」とか「仕事を成し遂げる力」というのは、コミュニケーションが苦手な人間が生きやすくなるための「最後の拠り所」でもあるのです。医者とか、「この人、医師免許持ってなかったら、社会生活もまともに送れず、みんなに嫌われていただろうな」なんて人が少なからずいます(僕もたぶんそうです)。そういう人は、周りは無視できないだけに困るんだろうけど、本人は、それで生き延びられている。
岡村さんだって、みんなにやさしく、朗らかでいられたら良いにきまってはいるのですが、それができない代わりに、「笑い」をつくる能力を研ぎ澄ませてきたようにも思われます。
あらためて考えてみると、この押井監督の本が出たのは2008年。倖田來未さんの「羊水」発言も2008年なんですよ。
押井監督の本も、2020年に読むと「とはいえ、いくら才能があっても、これじゃ隙だらけだよな」とも感じます。
21世紀になるとともにインターネットが劇的に普及しはじめ、2010年くらいには、コンテンツのゾーニングがほぼ消失し、「この人は特別な能力で貢献しているから、プライベートはある程度大目にみよう」みたいな考え方は過去のものになった、ということなのかもしれませんね。
例のごとく、何が言いたいのかよくわからない内容になってしまいましたが、とりあえず、思ったことをつらつらと書きならべてみました。まとまらなくて、申し訳ない。