いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「書」に全く興味がなかったのに、九州国立博物館の特別展『王羲之と日本の書』を観てきた話。

www.kyuhaku.jp


 先週、九州国立博物館で、特別展『王羲之と日本の書』を観てきました。
 僕はこれまで「書」というものにはこれまで全く興味がないというか、「何が面白いのか、よくわからない」というのが率直な印象なんですよ。
 アートに関しては、もともと「下手の横好き」という感じなのですが、書と陶芸に関しては、「良さの基準」というものが僕の中には存在していないのです。
 ああ、有名な人が書いた(つくった)から、良いものなんだな、とか、美術展でいちおう一目だけ眺めて立ち去ろうとし、作者名をみてあわてて、じっくり観賞しているフリをすることばかりです。
 でも、よくわからない。
 書とか、読みにくく書いたほうが「偉い」んだよね、とか思っていました。


 しかしながら、先日、伊集院静さんの書に関する本『文字に美はありや。』を読んでから、少し書にも興味が出てきたのです。


 その本の話はこちら。
fujipon.hatenadiary.com


 ちょうど時間ができたし、九州国立博物館はけっこう近いので、冒頭の特別展へ。
 高橋英樹さんと高橋真麻さんが親子でナビゲーターをつとめているオーディオガイドも借りて、わかったような顔をして1時間ほど観てきたのです。
 僕の場合、書というものの良し悪しを判断する眼力はまったくなくて、それでも『関山』の文字に凄みを感じることはできるのです(この二文字の行間がもう少し離れていたらどう見えるか、とか、『関』の字の門構えが真っ直ぐだったらどんな感じか、とか説明してあって、なるほど、勢いにまかせて書いているようにみえて、ちゃんと「計算」していたのだなあ、と感心しました。いや、書いた本人が本当はどこまで考えていたのかは、わからないんですけど)。「国宝」と表示されていなかったら、どこまで「わかる」のか自分でも疑問ですけど。
 

 最澄空海の「肉筆」なんて、すごいですよね本当に。
 そうか、これをあの歴史上の有名人たちが、実際に書いていたんだなあ、と。
 織田信長の肉筆、というのも展示されていました。
 こういうのは本人じゃなくて、祐筆が代書しているのだろう、と思いきや、数は少ないものの、信長自身の筆だとされているものが残っているのです。
 信長の自筆、といわれると、なんだかすごく個性的にもみえてくる。


 足利尊氏湊川の戦いの3か月後に書いたという、あとは弟の直義にまかせて隠居したい、という手紙が、後半になってどんどん行間が詰まり、文字が小さくなっていくのをみて、「ああ、こういう書いている途中に感情があふれてきて、書ききれなってくる感じ、わかるような気がするなあ」と思ったりすることはできる。書そのものよりも、それを書いている人の心境みたいなものを勝手に想像してしまうのです。
 歴史上、尊氏は、武家の棟梁として戦いながらも、実務は弟の直義に頼っていて、自分は隠居したいと考えていたそうです。
 しかしながら、結局、その願いは果たされることなく、志をともにしたはずの後醍醐天皇楠木正成新田義貞と戦い、頼りにしていた弟とも争い続けたのです。
 まあ、なんというか、矛盾の人、ではありますよね。
 それが、この書にあらわれているのではなかろうか。


 絵を描いている姿より、文字や手紙を書いている状況や心境のほうが、僕には想像しやすい。
 その気になってみてみれば、書というのもけっこうおもしろい、ような気がします。


 絵や彫刻、陶芸に関しては、みんなが目標とする「完成形」というのは存在しないのですが、書というのは、中国の王羲之という人の字がずっと「お手本」になっていて、みんな「王羲之のような字を書きたい」と練習していくのです。
 ところが、その王羲之の「真筆」とされているものはひとつも現存していない。
 いま伝わっているものは、精巧な複製品だけです。
 唐の太宗は王羲之の傑作『蘭亭序』の真筆を所有していたそうですが、あまりにも王羲之のことが好きだったので、自分の陵墓に副葬するように命じたのだとか。
 でも、この『蘭亭序』って、内容はみんなで集まった宴でつくった詩集の序文でしかないのです。


 絵だけで有名になった画家は歴史上大勢いるけれど、身分が低いけれど書が上手かったからもてはやされた、という人は歴史上いないんですよね。
 歴史上の長い期間、文字を書くような立場の人は知識階級にしかいなかったから、というのも、もちろんあるのでしょうけど。
 「書」という文化は、西洋にはありませんし。
 有名人が書いたから、「個性的!」とか「あの人らしいな」とか思われて、高く評価されていることもあるのではなかろうか、とも思う。
 

 そして、僕はずっと「上手い字は読みにくい、崩してある字」だと思い込んでいたのですが、前述の『蘭亭序』をはじめとして、有名な書というのは、今の僕が読んでも、「読みやすくて、丁寧に書かれている」あるいは、一生懸命に書かれている、ように感じられます。
 もしかしたら、書を見ている人の心を動かすのは、そういう「書き手の読む人にこれを伝えたいという誠意」なのかもしれません。
 手書きの機会が減っていて、日頃、かったるいなー、と思いながら低筆圧で文字を書き散らかしている僕としては、反省するところも多かったのです。


 あと、高橋真麻さんをバラエティタレント枠とみなしてきたのだけれど、オーディオガイドで真剣に説明している声をきいていると、やっぱりアナウンサーなんだな、と感心してしまいました。ちなみに、高橋英樹さんは書が趣味なのだそうですよ。


 会期は2018年4月8日までで、印象派の絵画展などに比べると、ゆっくり観賞できる状況でもありますので、興味を持たれた方は、足を運んでみてはいかがでしょうか。
 地味だけど、本当に地味だけど。
 

文字に美はありや。

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もっと知りたい書聖王羲之の世界 (アート・ビギナーズ・コレクション)

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マンガ 「書」の歴史と名作手本―王羲之と顔真卿 (講談社+α文庫)

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