いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

タッチパネルとペッパー君と「かわいそうな営業マン」

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 世の中には「タッチパネルが不要」とか「苦手」、あるいは「ああいいものは、人と人とのコミュニケーションを減らしていく『害悪』だ」と考えている人が少なからずいるんですね……
 もちろん、それもTPOによるものでしょうし、いくら「タッチパネル反対派」であっても、「銀行のATMは情緒がないし、融通がきかないから、全部行員が対応しろ!」という人は、いまの世の中にはほとんどいないと思いますが。
 こういう許容範囲って、人それぞれで、いちばん最初のエントリには「老害!」的な反応も多いのですが、「家族で行く回転ずしなら、タッチパネルは便利だけれど、仕事帰りに寄る居酒屋で、店員さんとちょっとしたコミュニケーションもとれないのは寂しい」というのなら、僕にも理解できなくはありません。
 いや、個人的には、技術的に可能なものは、すべてタッチパネルかセルフにしてほしい、というのが、ラーメン屋に入るときになぜかスルーされがちで、「替え玉ひとつ!」と叫ぶのが苦手な僕の切実な願いなんですけどね。
 こういう話、本当にたくさん書いてきたな……


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そうは言っても、パネルのおかげで、客と店員との会話が減ることはどうも寂しいし、不便でもある。これまでなら、「生ビールとみそラーメン。生ビールは先に持ってきてね。みそラーメンは少し遅めに」などと一気に言えたのに、パネルではそれができない。別々に注文しなければならない。


 店側としては、「こういう曖昧なタスク処理を求められるのがきついから、タッチパネルにしたんです」と言いたいのではなかろうか。
 「みそラーメンは少し遅めに」ということは、そのお客の生ビールや他のおつまみの減り具合をときどき確認しなければいけなくなるし、そうやって提供しても、このお客さんにとって適切なタイミングかどうかはわからない。頃合いをみて、自分でタッチパネルで注文してください!って言いたくなるよねそれは。言わないだろうけど。僕が客だとしても、そのほうが気楽です。そんなに注文してからできあがるまでに時間がかかるメニューでもないだろうし。


 このエントリへの反応をみていると、「そんなに丁寧な接客をしてほしいのなら、高級店に行け」というのがけっこうあるんですよ。
 それはわかる。いまや、人間に丁寧に反応してもらおうとすることそのものが贅沢なのかもしれない。
 ただ、僕は「丁寧な接客をされるのが面倒、苦手だから、高級店には行きづらい」のです。お金が全然無いわけじゃないんだよ!本当だよ!


 床屋も会話が苦手だから1000円カットを愛用しているし、注文がタッチパネルだから吉野家よりも松屋を選ぶことがあります。ガソリンも基本的にセルフを探します。
 これらの業態というのは、本来は「仕事がやや粗くなったり、リスクが少し高くなったりするけれど、コストをカットして短時間で安く済む」というのが主な狙いだったと思うんですよ。
 しかしながら、実際に広まってみると、「めんどくさいコミュニケーションを省ける」というのをメリットだと感じている人が多いのではなかろうか。少なくとも僕はそうです。
 床屋でいえば、1000円で1時間かけて丁寧にカットしてくれて、いろいろ話しかけてくる店より、3000円で10分で黙ってサッとやってくれる床屋を選びます。仕上がりが多少雑だとしても。実際は「速いほうが安い」場合がほとんどですが、利用しているいちばんの理由は「安いから」じゃない。
 回転ずしのタッチパネルにしても、回っていないネタのオーダーとか、子ども用のさび抜きとかは、タッチパネル以前では、それなりに手間だったんですよね。大きな声でハキハキと注文するのが苦手な人間としては。
 セルフのスタンドの良さというのは、給油するたびに、点検しましょうか、とか、会員カードつくりませんか、とか言われないことだと思うのです。そりゃ、点検したほうが良いのだろうけど(僕の場合、いちおう、販売店で定期点検は受けてます)、また何か売りつけられるのではないか、と感じるし、何かを勧められて、それを断ることにはストレスとめんどくささがある。
 だから、せっかくセルフのスタンドで給油しているのに、わざわざ店員さんが寄ってきて、「会員カードはお持ちですか?」とか聞かれると、「そうじゃないんだよ……」って言いたくなります。そういうのがめんどくさいから、ここに来たのに!
 書けば書くほど、僕自身がコミュニケーション嫌いの偏屈オヤジであることが浮き彫りにされてきて、とても悲しい。


 最初から2番目のエントリを読むと、居酒屋では、売り上げを考えると、タッチパネルではなくて、人間の接客(たとえば、グラスを下げるときに「お代わりはいかがですか?」と尋ねる)のほうが人件費を考えてもプラスになる、というケースもあるようです。タッチパネル方式というのは、導入のコストもかかるでしょうし、店が閑散としているときでも、ランニングコストは同じです。団体客や大きな宴会のときだけ増員する、というような対応はできません。

 
 「人は人を邪険にできない」ということを考えてしまうんですよね。
 僕も「邪険にできないからこそ、めんどくさい、なるべく接点を減らしたい」のだよなあ。
 

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 こういうのを読むと、本当に「人間の労力の無駄遣い」だと思うんですよ。

 冷たく断っちゃったけど、本当はあなたみたいに一生懸命な人には優しく対応したい。寒い中お仕事大変でしょうって思うよ。

 でも、「こうして外回り営業をさせられている、かわいそうな若い人」にみえるからこそ同情し、話くらいは聞いてあげようか、という人も出てくるのです。そして、一度話をしてしまうと、そこから高確率で一気呵成に契約にもっていくノウハウも、彼らはきっと持っている。
 これを読みながら思ったのは、この人(この匿名ダイアリーを書いている人)は、「ちゃんと話を聞いて断っている真面目で優しい、他よりは脈がありそうな人だから、狙われているのではないか」ということでした。
 このあいだ某セキュリティ会社の人と話をしていたのですが、今は「アポイントメントがないと、玄関のチャイムを鳴らしても出ない」「知らない番号からの携帯電話への着信にもすぐには応答せず、留守番電話の内容を確認してから」という人が多いそうです。
 携帯電話なんて、もともと「知り合いからしかかかってこないはず」なのに、いつのまにか、そんな用心が不可欠になってしまった。


 こうして、「かわいそうな営業マン」を前面に押し出すことによって、「おひとよし」がスクリーニングされていく。
 ほとんどの家で冷淡な対応をされる営業マンたちの心も削られていく。「いいひと」は、削られていく彼らのために「何か」してあげたくなる。
 かくして、彼らが所属する「会社」だけが幸せになるシステムができあがるのです。
 今の世の中の「人力」って、実際はかなり多くの場面で、「こんなことをやらされて、かわいそう」と相手に思わせるために、使われている。
 あるいは、誰かのストレスの「はけ口」にされている。
 ペッパー君にいくら文句を言っても、「すっきりしない」人は多いのです。


 対人コミュニケーションを重荷に感じる人というのはけっこう大勢いるんですよね。
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 この新書、著名なロボット工学者の石黒浩さんが書いたものなのですが、大阪タカシマヤで試用された、接客アンドロイド「ミナミ」が紹介されています。

www.youtube.com


 ミナミは服を売っているのですが、販売員としての成績は優秀で、高齢者や男性に対しては、人間よりもいい成績を出しているそうです。
 お客さんは、ミナミとタブレット端末のディスプレイに表示される選択肢を選んで会話するのですが、基本的な選択肢の数は4つで、そのうち1つは「そんなこと言うて、また買わそうとして」というようなネガティブなものになっています。
 なぜなら、そういうふうに相手にネガティブなことを言うと、大部分の人は負い目を感じて、「フォロー」しようとして、罪滅ぼしに服を買うことを検討するようになるから。
 人間対人間ならわかるのだけれど、対アンドロイドでも、人間にはそういう傾向があるのです。
 対人だと、そう簡単にはネガティブ、攻撃的な言葉は投げつけられないけれど、相手が機械だったら大丈夫だろう、と選択してしまったあとに、やっぱり後悔してしまうんですね。

 しかしこれだけでは、ミナミの方が人間の販売員よりも好成績な「売上」までを達成できる理由を説明できない。なぜなのだろうか。
 ふつう、僕らが服屋に行った場合、人間の店員に話しかけるのは、あるていど服を買うという意志をもって行動しているときである。言いかえれば、店員に話しかけることは「その服を買わなければならない」というプレッシャーにつながっている。しかしたとえば試着して気に入らなかったときや、よく見たら似合わなかった場合には、断らなければいけない。むこうは売るのが仕事だから、似合っていなくても「お似合いですよ」と言って買わせようとするかもしれないし、あれこれいらないものまで薦めてくるかもしれない。それを断る必要を想像してしまうと――非常にめんどうくさい感覚をおぼえる。
 ところがアンドロイドに対しては「ロボットだし、イヤなら無視すればいい」と人間は思う。だからほとんどのひとは、ミナミに話しかけることに抵抗がない。いつでも断れると思っている。逆説的だが、断れると安心しているからこそ、積極的に買い物にのぞめるのだ。人間相手に服を選ぶさいには抱く抵抗感が、ミナミを前にすると薄くなる。こうした心理状態にあることは、アンケート調査に裏づけられている。
 もうひとつ面白いのは「アンドロイドは嘘をつかない」という信頼感である。


 「買わなくても、気軽に断れる」そう思うと、ミナミに声をかけやすい、というのは、すごくよくわかります。
 僕は、服屋で店員さんがすぐに寄ってきて、「お似合いですよ」とか、明らかに似合っていないものを薦められるのが、苦手で苦手で。
 似合わないのは服のせいではなくて、僕自身に問題があることも理解しているので、さらに心苦しい。
 こうしてみると、ロボットには、人間でないことによる安心感、みたいなものが少なからずあるのです。
(著者は「距離感がない」「遠慮しなくていい関係」だと述べています)
 著者たちは、自閉症の子どもの治療にアンドロイドやロボットを使う研究をすでに3年ほど行なっているそうです。


 人と人との絆が大事、とは言うけれど、僕個人は、多くの人は、緊急時や非常事態でもないかぎり、身内や気の合う仲間以外との絆なんて、そんなに必要とはしていないのではないか、と考えています。もっと率直に言うと、身内や友達とだって、ずっとベッタリしていなくてもいい、という人もいるはずです。SNSは一般化してきたけれど、主流になってきているのは「仲間だけと繋がれるサービス」なんですよね。それでも、鬱陶しいと感じている人がたくさんいます。
 世界に開かれたウェブというのは、いまの人間にはあまりにもノイズが多く、リスクが高すぎる。
 社会で、多くの人が自由意志で行っている選択では、「リスクがある他者との接点を極力減らす方向」に進んでいるのです。


 先日、『はま寿司』で、「こんにちは!」と、楽しそうにペッパー君に話しかけている子どもを見かけました(その店では、ペッパー君が受付をやっているのです)。
 前述の石黒浩さんは、「テレノイド」という、「クリオネ」みたいな、顔と短い手と丸まった下半身を持ったロボットでの実験結果を、このように紹介しています。

 僕が作ったロボットで、もっとも「気持ち悪い」と言われるのは、「テレノイド」である。こんな気持ち悪いものを作り、高齢者に抱かせて実験しようなどと考えた人間は、僕のほかにはいないだろう。
 テレノイドは、人間としての必要最小限の「見かけ」と「動き」の要素のみを備えた通話用のロボットである。やわらかな形状をした端末を抱えながら、声を通して相手と話す。対話相手の姿を見ることはできない。一方で、テレノイドを操作している人間は、ロボットに附属するカメラで撮影され、向うからは姿が見えた状態で話をする。


(中略)

 
 複数の施設の協力を得て実験したところ、高齢者はこのテレノイドでの通信を好み、「生身の人間以上(実の家族以上)に親しみやすい」と評価する傾向が、如実にあらわれた。もちろんそれでも「気持ち悪い」と言う人もいるが、大抵の人はテレノイドを使って通話し始めると、夢中になって話をするようになる。これは日本だけでなく、オーストリアデンマークなど、さまざまな施設で行なったアンケート調査から明らかになっている。
 70代〜80代の老人たちは、なぜ自分の息子たちとの対面のコミュニケーションより「テレノイド相手に息子と話すほうがいい」と言うのか。なぜ「かわいい孫やひ孫はまだいいが、50代〜60代になる自分の子どもには会いたくない、テレノイドのほうがいい」と言うのか。

 
 テレノイドを通じての対話なら、家族が内心抱いている「親の世話をするのは面倒くさい」という雰囲気や、不安が表情に出ることもなく、それが親に直接的に伝わることもない。だから高齢者は「テレノイドと話すほうが快適だ」と言うのである。
 高齢者には肉親のみならず、デイケアセンターのスタッフや医者、看護師との会話にも気後れする人が多い。「先生に迷惑をかけてしまうのではないか」といった後ろめたさが付きまとい、医者とあまりしゃべらない人も多いのだという。


 この『テレノイド』を紹介した記事がこちらです。
www.itmedia.co.jp


 人と人とのコミュニケーションには、充実感と同時に、めんどくささや危険性もある。
 相手が人工知能あるいはロボットだとわかっていても、多少なりとも「身体性」があることが、いまの人間にとっては大事なようです。
『はま寿司』のタッチパネルでは、声優さんを起用しての音声ガイドが行われているのですが、それは、視力に障害を持つ人への配慮だけでなく、そのほうが「もてなされている感じ」がするからなのかもしれません。
 やっていることは同じでも、回転寿司店のタッチパネルの受付に、子どもたちは「こんにちは」と挨拶はしません。
 そして、多くの人が「人間らしいコミュニケーション」と考えているのは、「自分にとって都合の良いやりとりの範囲内」での話であって、面倒ごとまで含めると、「人間っぽさが感じられるくらいの、人間じゃない相手のほうがラク」なのだと思います。

 
 僕は対人コミュニケーションへの不安が強いので、みんなタッチパネルかセルフにしてくれればいいし、床屋ロボットを心待ちにしているのです。
 椅子に座っただけで顔認証され、「おすすめのメニュー」が表示され、客は「じゃあ、それで」と言うだけの飲食店が登場するのも、そう遠い話ではないでしょう。
 あとはもう、僕の替わりに誰か(あるいは何か)が仕事や食事や排泄や睡眠をやってくれれば言うことないんですが。


人工知能の「最適解」と人間の選択 (NHK出版新書)

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アンドロイドは人間になれるか (文春新書)

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