いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

子供の「何で勉強するの?」に答えるのは、本当に難しい。

参考リンク(1):子供に「何で勉強するの?」と聞かれたら、どう答えますか? | シンプルライフ


参考リンク(2):なぜ勉強した方がよいのか - 指揮者だって人間だ


こういう「問い」に答えるのは、本当に難しい。
正直、万人向けの答えなんてありはしないと思うのです。
でも、僕だって、「なんで勉強しなきゃいけないの? 遊びたいよ〜」と子供に言われることはあるわけで。
そのときは確か「お前の大好きなカッコいいトミカをつくっている人たちは、面白いおもちゃをつくるためにたくさん勉強しているんだよ。だから、大人になって楽しいことをやりたいと思うのなら、勉強しておいたほうがいいよ」とかなんとか言ってお茶を濁したのですが、どうもね、しっくりこない。


それで、「なぜ僕は子供の頃、勉強しようと思ったのだろう?」と記憶を掘り起こしてみたのです。
実際は「言うほど勉強してないだろ、自分……」って感じなんですけどね。
僕は運動音痴で優柔不断で見た目も悪く、自分でも「取り柄のない人間」だと認識していました。
でも、その取り柄も無いなかで、勉強だけは、比較的マシだったんですよ。
だから、子供の頃から「これから生きていくための武器になりそうなのは、勉強するしかないな」と思っていました。
正直、「そうやって生き抜いてやるぜ!」みたいな強い野心じゃなくて、まあそこまで生き延びなくてもいいんだけど、将来生きていたくなったときに、ひとつくらい武器があったほうがいいだろうな、とか、そんな意識でした。
ノストラダムスの大預言が的中するのなら、勉強なんてしても意味がなさそうだけど、外れた場合、いきなり丸腰で勝負するのはつらいので、もしものために勉強しておくか」というような。
僕にとって、他人から褒めてもらえること、あるいは、他人との競争で勝てるものが、それしかなかったので、承認欲求を満たせる、数少ないものでもありましたし。
あと、「知識を自分にインストールしていく」のは、けっこう楽しかったのも事実です。
一種の収集癖みたいなものかもしれませんね。
「何かをしたいから勉強する」という感じではなかったなあ。
少なくとも、子供の頃には。
勉強よりもテレビゲームやマイコンのほうが大好きでしたし。


医療の仕事をはじめてからも、いろんな勉強をしたり、手技のトレーニングをしたりを続けているのですが、僕は不器用なんで、手技ってあんまり得意じゃないんですよ。
いつも、なんとなく腰が引けてしまう。


内視鏡が上手な同僚がいて、「この検査、けっこう難しいし、やるのきついよね。合併症とかもあるし……」と、なんとなく話していたんですよね。
同僚は、こう答えてくれました。
「うーん、たしかにリスクもあるけど、オレはこの検査、楽しいんだよね。数をこなしていくうちに、自分がどんどん上手になっていくのがわかるし。カメラを操作しながら画面をみて、検査をすすめていくのって、なんだか、テレビゲームみたいじゃん。ゲームが上手になっていくような面白さがあるんだよ」


同じ検査をやっていても、ストレスに感じている僕もいれば、こういうふうに楽しんでいる人もいる。
「テレビゲーム」なんて言われたら不謹慎だと思う人もいらっしゃるかもしれませんが、彼は検査が上手でしたし、患者さんへの対応もソフトで、評判のいい医者でした。


これを聞いて、僕はあらためて思ったんですよ。
ああ、楽しんでトレーニングしている人、好きでやっている人には、かなわないなあ、って。


たとえば、サッカー選手をやっている子供に「何でサッカーやるの?」と聞く人はいません。
それは「サッカーをやる子供は、それが楽しいからやっているはずだ」という先入観でみているからです。
でも、勉強をするためには「なんで勉強するの?」っていう、「勉強する理由」が必要とされます。
おそらく、世の中の多数派は「勉強なんてしたくない人、めんどくさいと思っている人」なのでしょう。
僕だって、基本的にはそうです。
だから、「みんな勉強は嫌いで、やるにはそれなりの理由が必要だ」と。


しかしながら、いままでの僕の人生を振り返ってみると「勉強することそのものが好きで、楽しいと思っている人」って、けっこうたくさんいたんですよ。
サッカー好きな子がサッカーをするように、勉強好きな子だから、勉強をする。
僕は運動音痴なので、「ずっとサッカーの練習をしている子供」の気持ちは、よくわからない。
なんで、あんなにきつい練習に耐えられるのだろう?とも思う。
だけど、サッカーが好きで、サッカーが上手くなるのが最大の喜びである子供にとっては「きつい練習にも、意味と充実感がある」はずです。
人は、自分の物差しで他人を測ってしまいがちだけれども、「勉強がサッカーやテレビゲームや恋愛より楽しい人」って、いるんですよ本当に。


いやまあ、周囲のいろんな人をみていると「環境を整えること」で、「勉強する子供」って、つくろうと思えばつくれてしまうような気もするんですけどね。
「勉強ができる人」たちが集まって、頂上を目指していくと、「養殖勉強家」は「天然勉強家」にはかなわないなあ……と痛感させられてしまうとしても。


要するに、素質とか、本人の適性みたいなものだから、「理由を外部から言葉で説明して、納得させる」みたいなのって、難しいのかもしれません。
「勉強する子」は、「勉強が好きという素質がある子」か「勉強しなければならないという環境に置かれるか、自分でそのように意識している子」が多いのです。


どうしても「勉強する理由」を子供に説明しなければならないとしたら、抽象的な言葉を使うよりも「勉強した(している)人の伝記」を読んでもらうのが良さそうです。


「キャッチボール~ICHIRO meets you」(「キャッチボール~ICHIRO meets you」製作委員会著・糸井重里監修)というイチロー選手へのインタビュー番組を書籍化したもののなかで、イチロー選手は、こんなことを仰っています。聞き手は、糸井重里さん。)

イチローこれね、大事なことなんですよ。
 僕がよく小さい子に言うのは、「野球がうまくなりたかったら、できるだけいい道具を持ってほしい。そしてしっかりとグラブを磨いてほしい」ということと、「宿題を一生懸命やってほしい」ということ、なんですね。
 宿題をやる意味は、宿題そのものだけではないんですよ、実は。
 なんでぼくがそれを大事だと思っているかというと……大人になると、かならず上司という人が現れて、何かをやれ、と言われるときがくると思うんですね。
 子どもにとっていちばんイヤなことは、勉強することなんです。
 よっぽど勉強が好きな人はおいておいて、キライなことをやれと言われてやれる能力っていうのは、後でかならず生きてきますよ。
 ぼくが、宿題を一生懸命やってよかったなと思うのは、そこなんですね。
 プロ野球選手という個人が優先される場所であっても、やれと言われることがものすごくあるわけです。だったら、一般の会社員になって、そんなことは毎日のことのはずです。だから、小さい頃に訓練をしておけば、きっと役に立つと思うんです。
 やれと言われたことをやる能力を身につけておけば、かならず役に立つ。
 「自分は野球が好きだからそれだけやっていればいいや」といって宿題を放棄してしまったら、おそらく、後で大変な思いをすると思うんですよね。


また、『○に近い△を生きる』(鎌田實著/ポプラ新書)で、こんな話を読みました。

 16歳のマララさんは、パキスタンの女学生だった。女性が勉強する自由を訴えたために、イスラム原理主義タリバンに銃撃され、瀕死の状況に陥った。それを乗り越え、自らの誕生日に国連で演説をした。
タリバンは私や私の友人を銃弾で黙らせようとしたが、失敗した。
 テロリストは何も変えられなかった。
 私から弱さと恐怖、絶望が消え、強さと力、勇気が生まれた以外は」
 銃弾は女の子を黙らせることはできなかった。この女の子は銃弾を受けたことによって怖いものがなくなったのだ。かえって勇気が生まれたという。
 なぜ勉強するのかがわかる、マララさんの大事な言葉である。
「私を撃ったタリバンを私は憎まない。もし私が銃を持ち、彼らが目の前に立っても私は撃たない」
 これが勉強することの意味なんだ。首相の安倍さんはやられたらやり返す力を持った普通の国になりたいと考えているようだ。安倍さんの気持ちもわかるが、一歩立ち止まって、マララさんの言葉を勉強してほしい。この国をどうしたらいいのか、この国の憲法をどうしたらいいのか、もっと深い討論ができるのではないかと思う。みんなが勉強することが大事だ。


僕はこの二つの話を読むたびに「勉強って、なんというか『人にやせ我慢をさせるための装置』みたいなものじゃないのかな」って思うのです。
宿題くらいならともかく、「やり返さない、憎まない」というのは、人間の本性としては「不自然」だし、美しいのと同時に、ひどくもどかしいことでもあります。
でも、人間を「人間らしく」しているのは、たぶん、こういう「やせ我慢」なんですよね。


勉強は、そんなに特別なものじゃない(「特別じゃない」環境に生まれた人間は、それだけでラッキーではあるのだけれども)。
そして、勉強したからといって、「幸せ」になれるとは限らない。
それでも、勉強することによって「幸せとは何か?」を、考えることはできるようになる。


向き不向きは、あると思うのです。
「勉強」だけは、「どんなに向いていない子、嫌いな子にも、無理矢理やらせるべき」というのも乱暴な話です。
ただ、勉強に関しては、「どんなに向いている人ても、ある程度やってみないと、楽しくならない」のも事実ではあるんですよね。
そこがまた、難しい。


最後に、小説家・森博嗣先生の言葉を紹介します(『的を射る言葉』より)。

最も期待値の大きいギャンブルは、勉強である。

(その次は、仕事)


イチローに糸井重里が聞く (朝日文庫)

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わたしはマララ: 教育のために立ち上がり、タリバンに撃たれた少女

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的を射る言葉 Gathering the Pointed Wits (講談社文庫)

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