いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「入学式」だけで、人間を「評価」することの虚しさ

参考リンク(1):県立高教諭入学式欠席がわざわざ『問題』的に扱われることについて(BLOGOS)


参考リンク(2):りかいできないこと(BLOGOS)


埼玉の県立高校の先生が、自分の子どもの入学式に出席するために、担任のクラスの入学式を欠席した件、もう、話題としては、だいぶ下火になってきましたね。
僕も、さまざまな意見を読みましたが、なんかどうもしっくりこないな、と思いつつ、「店じまいの準備」をしていたのです。
そんなとき、参考リンク(1)の、元フジテレビアナウンサー・長谷川豊さんの文章を読みました。
そして、ああ、これはなんだか、納得できるな、と。


長谷川さんは、奥様の出産に立ち会うために、番組を休んだわけなのですが、長谷川さんをサポートしてくれた先輩アナウンサー、Kさんも、以前、奥様の出産に立ち会うために生番組を休み、テレビ局の内外から、大バッシングを受けたそうです。
無責任だ、と。

Kさんは自分の取った行動を…


批判を受けて当然の行動だ、と認めていました。


批判は当然。批判は正しい。でも、僕には妻の傍にいる義務がある!と、貫いたのだそうです。その後、誰も批判できないように、誰よりも早く会社に行き、懸命に誠意を見せたのだそうです。


Kさんも長谷川さんも「番組を休みたかった」わけではありませんでした。
人生において、より優先順位が高いと考えたほうを取るための選択をせざるをえなかっただけです。


あの高校の先生も、きっと、そうだったのだろうな、と僕は思います。
自分が担任する生徒たちの入学式を軽んじていたわけではなく、どちらにも出たいし、出るべきだと思っていた。
そのうえでの、「決断」だったのでしょう。


あらためて考えてみると、「入学式」という一大イベントだけで、その先生のことを評価するのは、おかしな話でもあるんですよね。
このKさんの話では、Kさんが、その後、それまで以上に仕事をがんばった、ということが紹介されています。
妻の出産に立ち会ったことに「負い目」を感じるのが正しいかどうか疑問ではありますが、日頃からサボりまくっている人が、妻の出産で欠席した場合と、毎日きちんと働いている人が、妻の出産で欠席した場合では、欠席したときの他者の見方は、まったく違ったものになるはずです。


まあ、日中はサボりまくっているのに、終業時間が終わってもダラダラ残っているだけの人が、日中しっかり仕事をして終わらせて、定時に帰っている人を「あいつはいつも定時に帰りやがって、仕事を何だと思ってるんだ!」とか批判する姿を、僕も何度もみてきたんですけどね。


「入学式の欠席」は、望ましいことではないでしょう。
でも、入学式は大事なイベントだけれど、高校生活のなかの、たった一日、でもあるわけです。
大切なのは、「それからの日常の高校生活で、どんな先生でいてくれるか」。


長谷川さんは、このエントリを、こんなふうに結んでいます。

もちろん、今回のケースでも批判は当然のことだと思います。おっしゃることもごもっとも。でも、僕はそれでも信じます。この先生、多分、いい人だ。強い人だ。そして、家族を大事にする人だ。きっと、子供と同じように生徒のことも大切にする人でしょう。


もし、「無難にやろう」と思っているのなら、いまの日本の先生であれば、入学式に黙って出席して、家に帰って子どもに「ごめんね」と言えば、済んだはず。
この先生は、あえて「困難な道」を選んだ、とも考えられます。


この件に関して、参考リンク(2)のように「教師としての責任」を問う人がいるのもわかります。
僕も、自分だったら、どうするだろうか?と考えました。
どちらの入学式に出席するにしても、「これは親としての権利だ!」とか「教師としての義務だ!」というような強い主張ではなく、行けなかったほうに負い目を感じつつ、出席することになるのだろうな、と。
身体は、ひとつしかないのだから。


この先生、きっと良い先生なんだと思うんですよ。
入学式に来られなかったのは、お互いにとって「残念」ではあるけれど、取り返しのつかない出遅れではないはず。
高校生はそんなに「子ども」じゃない。
むしろ、周囲の「関係ない大人たち」のほうが、批判や不安を煽って、状況を悪化させ、不信感を広めてしまっているように思われます。
大人がやるべきことは、生徒たちに「みんなも残念だろうけど、先生の事情も理解してあげてくれ」と説明することではないかと。


来年の春には、このクラスで、「あっ!そういえば先生、入学式出てなかったよね!」なんて、笑い話になっていることを願っております。