いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

人生に「意味」はありますか?

参考リンク:人は何のために生きているのか。 - 自省log


このエントリを読んで、「生きることの意味」について、あれこれ考えてみたのですが、正直僕もよくわからないんですよね。
とりあえず、「長生きはしたいと思うけれど、早く週末にならないかな、と考えるのは矛盾しているよな……」などとときどき苦笑してみる程度のものです。



3年くらい前、『モンキー・ビジネス』という翻訳家の柴田元幸さんが主宰されていた雑誌に、こんな特集記事があったんですよ。

モンキービジネス 2011 Winter vol.12 人生の意味号

モンキービジネス 2011 Winter vol.12 人生の意味号

内容紹介
人生の意味
あれば幸福か
なければ不幸か


人生に意味はありますか?21人の回答
(回答者)石川美南/岩松了/内田樹/大竹昭子/小田嶋隆/春日武彦/岸田秀/木田元/栗田有起/佐藤雅彦/塩川徹也/釈徹宗/しりあがり寿/谷川俊太郎/長島有里枝/奈良美智/西岡兄妹/福岡伸一/宮田珠己/森達也/ユアグロー

この号は「人生の意味号」と題されており、冒頭に「人生に意味はあるでしょうか。――モンキービジネスからの質問」への21人の識者の「答え」が掲載されていました。
(ちなみに、その他にも「人生の意味」関連の高橋源一郎さんの作品や翻訳小説、鼎談などが載っています)


21人それぞれが「その人らしい」回答をしているのですが、中には「うーん、なんか言葉遊びでごまかされちゃった気分だなあ」と感じる回答もありました。
そういったものも含めて、とても面白い特集ではあったんですけどね。

内田樹
 もちろんこのような質問は「正解」を求めて発しているわけではありません。
 質問の含意は「あなたさ、たぶん『人生には意味がある』と無反省に思って暮らしているんだろうけどさ、ほんとにあなたの人生に意味なんかあるの? つまんない仕事して、不機嫌な家族と暮らして、定期預金の残高ながめて、それのどこが楽しいの?」というような、まあかなり挑発的なものであります。

谷川俊太郎
 意味があると答えても、意味はないと答えても、意味が生じてしまいます。人生にあるのは意味ではなく味わいだと私は思っているのですが、言葉で言うとどうも据わりが悪い。禅問答ではありませんが、答えは「……」とでも言うしかありません。

小田嶋隆
 人生に意味はあるのか、と?
 さあね。人それぞれなんじゃないの?
 つまり、「人生」といったような曖昧な言葉を使っている限り、答えは出ないということだ。設問を変えた方が良い。
「私の人生に意味はあるのか」
 と、より具体的に、より個人的に考えるべきだ。そうすれば、答えに近づくことができる。かもしれない。うまく行けば。


ちなみに、僕は宮田珠己さんの回答がいちばん好きでした。

宮田珠己
 人生に意味はあるか→即座に有酸素運動

こういうのを読んでいると、やはり僕なりに「人生の意味」について考えてしまったのですが、あれから3年近く経っても、まだ「答え」は出ていません。
個人的には、死ぬ間際になって「人生ってすばらしい!」とか「やっぱり家族が大事だ!」なんて突然言い出すのは、なんだか不誠実な気もしなくはないのですが、そこで「人生なんてくだらない」と言い放ちながら死んでいくのは、かなりハードルが高いだろうな、という気もします。
「もう飽き飽きした」って言ったという有名な政治家ってすごい、と。


「人生には明らかに意味がある」
自虐の詩』というマンガの最後に、こんな作者からのメッセージが書かれています。
このメッセージを最初に読んだとき、僕はちょっとがっかりしたんですよ。
そんなの、このマンガを読んできた人間には伝わっているに決まっているのだから、あえて「テーマ」として言葉にしてしまうのは、クドイしカッコ悪いし蛇足だよ……


でも、いまこうして「人生の意味」について考えてみると、業田良家さん自身も、あれだけの作品を描き上げながらも、「人生に意味があること」が読者に伝わっているのかどうか自信が持てなかったのかもしれない、という気がしてきたのです。


どんな人生にも、本当に意味はあるのか?
いや、『自虐の詩』の登場人物レベルであれば、まだ、「意味を見出す」ことは可能かもしれません。
でも、生まれた直後に命を落としてしまった赤ん坊とか、貧しい国で物心もつかないまま餓死してしまった子どもの人生に「意味」はあるのか?
「そういう人生にも、等しく意味はあるのだ」というのは、人生の意味なんて悠長なことを考えられる国・時代に生まれた僕の「傲慢」ではないのか?


生きることそのものが「意味」なのか?
子どもをつくって、遺伝子を遺すことが「意味」なのか?


僕は、自分自身の人生に「意味」なんてないと思っています。
僕はただ、「やるべきこと(その中には、自分の快楽を満たすための行為も含みます)をやる」しかない。
でも、そういう「やるべきことの積み重ね」は、他人にとって、ごくわずかにでも「意味」を持つことがあるのかもしれません。


『モンキー・ビジネス』のこの号に、オスカー・ワイルドの『しあわせな王子』が柴田元幸さん訳で掲載されています。

「街でいちばんとおといものをふたつもってきてなさい」と、神が天使たちのひとりに言った。天使は鉛の心臓と鳥の死骸をもってきた。
「おまえはただしいものをえらんだ」と、神は言った。「わたしの楽園の庭で、この鳥はいつまでもうたい、わたしの黄金の街で、しあわせな王子はわたしをたたえることだろう」

たぶん、この王子の人生には「意味」があると思うんですよ。少なくとも、この物語を読んだ人間にとっては。
ただ、王子の人生が「しあわせ」だったのかどうかは、僕にはよくわからない。
神を信じられない僕にとっては、幼稚園ではじめて読んでからずっとそれを考えているのですが、いまだに答えが出ないのです。



この「問い」に関しては、こんな本もあります。


それでも人生にイエスと言う

それでも人生にイエスと言う

内容(「BOOK」データベースより)
『夜と霧』の著者として、また実存分析を創始した精神医学者として知られるフランクル。第二次大戦中、ナチス強制収容所の地獄に等しい体験をした彼は、その後、人間の実存を見つめ、精神の尊厳を重視した独自の思想を展開した。本講演集は、平易な言葉でその体験と思索を語った万人向けの書であり、苦悩を抱えている人のみならず、ニヒリズムに陥っている現代人すべてにとっての救いの書である。

 この本は、著者のV・E・フランクルさんが1946年に行った講演をもとにしたものです。
 フランクルさんは、1905年生まれの精神科医
 第二次世界大戦中に、ナチスによって強制収容所に送られた経験をもとに書いた『夜と霧』は、20世紀を代表する本の一冊とされています。


 講演をもとにしているだけあって、専門的な本としてはとても読みやすいんですよね。
 とはいえ、内容的には読み飛ばせるようなものではないし、けっして「簡単」でもないのですが。


 タイトルにもあるように、V・E・フランクルさんは、この講演のなかで、「生きることを肯定する」という立場を貫いておられます。
 強制収容所という「絶望」のなかで過ごし、奥様をはじめとする多くの家族を失ってもなお、「生きること」の素晴らしさを訴えかける人がいる。
 それだけでも、僕などは圧倒されてしまいます。
 この本のタイトルが、単に『人生にイエスと言う』ではなく、「それでも」という言葉がついていること、そしてこの「それでも」の「それ」が指すものは、とても「重い」のです。

 あるとき、生きることに疲れた二人の人が、たまたま同時に、私の前に座っていました。それは男性と女性でした。二人は、声をそろえていいました、自分の人生には意味がない、「人生にもうなにも期待できないから」。二人のいうところはある意味では正しかったのです。けれども、すぐに、二人のほうには期待するものがなにもなくても、二人を待っているものがあることがわかりました。その男性を待っていたのは、未完のままになっている学問上の著作です。その女性を待っていたのは、子どもです。彼女の子どもは、当時遠く離れた外国で暮らしていましたが、ひたすら母親を待ちこがれていたのです。そこで大切だったのは、カントにならっていうと「コペルニクス的」ともいえる転換を遂行することでした。それは、ものごとの考えかたを180度転換することです。その転換を遂行してからはもう、「私は人生にまだ何を期待できるか」と問うことはありません。いまではもう、「人生は私になにを期待しているか」と問うだけです。人生のどのような仕事が私を待っているかと問うだけなのです。


 ここでまたおわかりいただけたでしょう。私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答を出さなければならない存在なのです。生きること自体、問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。


僕はこの部分が、すごく印象に残りました。
「私は人生にまだ何を期待できるか」ではなくて、「人生は私に何を期待しているか」
ああ、なるほど、そういうことなのか……
この言葉を聞いて、J・F・ケネディの「国家が自分に何をしてくれるかではなく、自分が国家に何をできるかを考えてほしい」という有名な演説を思い出しました。
この講演は1946年に行われたものですから、もしかしたら、ケネディ大統領は、このフランクルさんの言葉をどこかで耳にして、参考にしたのかもしれません。


「でも自分は、そんな立派な仕事もしていないし、子どももいないし……」と言いたくなる人も多いと思うんですよ。


フランクルさんも、もちろんそういう反論が出てくることは承知していて、

 けれども、たとえば失業者の場合はどうなるのか、とここで異議を唱える方もあるでしょう。でも、お忘れにならないでください。職業上の労働は、自分の人生を活動によって意味のある唯一の場ではありません。

と仰っています。

 それよりは、つぎのような思考実験をするだけにしておきたいものです。ぜひ思い浮かべてみてください。あなたは、コンサートホールにすわって、大好きなシンフォニーの大好きな小節が耳に響き渡っているところです。あなたは、背筋がぞくっとするほどの感動に包まれているとします。そこで、想像していただきたいのです。心理学的には不可能でも、思考実験は可能だとおもいます――その瞬間にだれかがあなたに「人生には意味があるでしょうか」とたずねるのです。そのときたった一つの答えしかありえない、それは「この瞬間のためだけにこれまで生きてきたのだとしても、それだけの甲斐はありましたよ」といった答えだと私が主張しても、みなさんは反対されないと思います。
 けれどもまた、芸術ではなく自然を体験した人にしても、おなじことでしょうし、ひとりの人間を体験した人にしてもおなじことなのです、ある特定の人を目の前にして心を捉えるあの感情、言葉で表現すると、「こんな人がいるだけでも、この世界は意味をもつし、この世界のなかで生きている意味がある」とでもいいたくなるような感情は、だれもがよく知っています。

 ちなみに、「自殺はなぜ無意味か?」という問いに対して、フランクルさんは次のような話をされています。

 ここでもう一度、チェスの勝負をたとえに使う必要があります。ここでわかっていただきたいのは、人生が出す問題を自殺によって「解決」しようとするのは、まったくばかげているということです。
 まあちょっと、考えてもみてください。あるチェスの選手が、チェスの問題に直面して、解答がわからず、盤の石をひっくり返すとします。なんということをするんでしょうか。そんなことをして、チェスの問題の解決になるのでしょうか。もちろんそんなことはありません。けれども、自殺する人はまさにそのとおりの行動をしているのです。自分の人生をほうり出しておいて、解けないように思われた人生の問題をそれで解決したと思っているのです。自殺することで人生のルールに違反しているとは思わないのです。さっきのたとえのチェスの選手が、チェスの勝負のルールを無視したのとおなじです。チェスの問題は、ルールの範囲内で、けいま飛びとか、王と塔の位置を入れ換えたり、なにか知らないですがそういったことで、いずれにしてもなんらかのチェスの手で解かなければならないのです。盤の石をひっくり返して解くというようなことがあってはけっしてならないのです。自殺する人も、人生のルールに違反しています。人生のルールは私たちに、どんなことをしても勝つということを求めていませんが、けっして戦いを放棄しないことは求めているはずです。

 これを読みながら、僕は、この「解答」の美しさに「なるほど」と感じながらも、「しかし、自殺する人というのは、それが『答え』だと思っているわけではなくて、チェスの次の一手がどうしても思い浮かばず、苦しくてしょうがないから、盤をひっくり返してリセットしてしまうのではないか?」とも考えてしまうのです。
 自殺というのは、「人生の問題を解決するため」ではなく、「苦しさに耐えかねて、人生の問題から逃亡すること」なんですよね。
 それはたぶん、「間違っている」のだと僕は思います。
 しかしながら、そういう状況に陥っている人が、「それはルール違反だから」という理由で納得し、もう一度人生に立ち向かっていけるのかどうか?


 フランクルさんのこの解答については、僕はあんまりスッキリしなかったんですよ。
 実際、「自殺が良いことだ」と思いながら自殺している人というのは、ごく一部の宗教の狂信者くらいでしょう。
 それでも、自殺する人はいなくなりません。
 これだけ長い間、「自殺はよくない」と多くの人が言い続けているにもかかわらず。


 僕は、この本でフランクルさんが仰っていることが間違っているとは思いません。
 ただ、「人生の意味」を考えることができるのは、心身に力が残っているときだけではないかと感じるのです。
 この『それでも人生にイエスと言う』は、すばらしい本だけれど、これはあくまでも「考える余裕があるときに読んで、いざというときのために、あらかじめ心に装備しておくべきアイテム」なのです。
 強迫的な希死念慮にとらわれれいるときになって読んでも(まあ、そういうときには本を読むことそのものが難しいとは思いますが)、特効薬にはなりえません。

 
 僕はこの本を震災の1ヶ月後に読んで、すごく感銘を受けたのですが、いまでもやはり、僕は人生に『イエス』って言えてないなあ」と痛感しています。


 「人生の意味」については、実際のところ、古今東西、大勢の人たちが考え続けているのですが、なかなか「模範解答」は出てきません。
 まあでも、考えようによっては、「みんなそれで悩んでいるんだな」ということが、ある種の「救い」でもあるのかもしれません。

 人生に意味はあるか→即座に有酸素運動

 少なくとも、平和なときには、これがいちばん「解決策」としては正しいような気もするんですけどね。
 

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