いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

大人はそれを我慢できない

参考リンク:宿題-ときどき休みます

 

「でも、オレが宿題やったことはなくならないから」
と下の子はつまらなさそうに言った。

 

ああ、下の子さん、カッコいい……

うちの息子も、こういうスタンスで頑張ってくれるようになれば良いのだが……

 

などと考えつつ、僕は自分の子ども時代のことを思いだしていました。

そうすると、昔のことで、はっきりとは思いだせないところもあるのだけれど、僕もこの下の子さんに近い考え方をしていたような気がするんですよね。

いや、もっと低次元で、「自分が見せるのは構わないけれど、人に見せてもらうのは恥ずかしい」というような感じだったかな。

 

僕は子どもの頃、ずっと疑問でした。

なぜ大人は、あんなに長い間生きてきて、いろんなことがわかっているはずなのに、浮気したり、怠けたり、つまらないことでケンカしたりするのだろう?って。

なんで、我慢できないのだろう、大人のくせに、って。

 

でも、自分が大人になってみて、わかった。

子どもが我慢したり、地道な努力を続けられるのは、「これが将来の自分にとって、きっと良い結果をもたらすはずだ」という「希望」があるからなんだな、と。

 

大人になると、わかってしまう。

あるいは、わかったような気がしてしまう。

もう、この先に、楽しいことなんて、ないんじゃないか?

我慢しても、いいことなんて、ありはしないんじゃないか?

 

大人が、大人として我慢するのは、世間体とか、我慢したほうがめんどくさくなさそうだからとか、お金がないからとか、子どものためだとか、そういう、なんだか自分以外のもののためというか、消極的な理由です。

とりあえず、決定的な「破滅」を避けるために、我慢する。

その我慢は、けっこうキツイ。

 

最近、つくづく思うんですよ。

大人って、常に「めんどくさい」と戦わなければいけないんだなあ、って。

そして、「大人なのに我慢できない」のではなくて、「大人だから、我慢するのがどんどんつらくなってくる」のだなあ、って。

 

僕は子どもの頃、「大人」だったなあ、なんて思います。

息子をみていても、「こいつは僕より大人だなあ」って感じることもある。

だいたい、その次の瞬間に、クレヨンしんちゃんのモノマネが始まって、「ま、やっぱり子どもだな」なんて、ちょっと安心してみたりもするのですけど。

 

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