いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

フィクション作品での因果応報やハッピーエンドにこだわる人々


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 こういうのをみると、「そんなディテールで、作品全体を評価しなくても……」とは思うんですよ。
 そもそも、「悪いヤツが退治されて、(観客としての自分が)スッキリした」というのと、「その作品への評価」というのは、イコールなのかどうか、っていう疑問もあるわけです。
 僕自身は「作品の内容や結末は不快だったり、納得できなかったりするけれど、気持ちを揺さぶられたり、あれこれ考えさせられたという意味で、良い作品だった」という評価をすることはありますし、逆に「ベタな勧善懲悪で、それなりに気は晴れたけど、もう一度観ようとは思わない」と感じたこともあります。

 「快・不快」と、作品の「質の高さ」がイコールになってしまう人がいる、というのもわかるのですが、そうなると、『ジョーカー』とかは、どうなるのだろうか。
 主人公はひどい目にばかり遭っていて、後半は、他者をひどい目に遭わせている、観ていて「不快」というか、「閉塞感」とか「不安」にとらわれる映画です。あのラストは、そんななかで、一気に解放感にひたれるので「合格」なのか、やっていることは悪いことなので「不合格」なのか。


 ハッピーエンドばっかりじゃ面白くないし、フィクションの観かたを知らないんじゃない?

 ……と、20年くらい前の僕は、思っていたわけです。


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 でも、今は、「フィクション作品での因果応報やハッピーエンドを求める人々」の心境も想像できる気がします。


 先日、この本を読んだのです。
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 アウシュヴィッツ収容所で、ユダヤ人をガス室に送る組と強制労働をさせる組に「指一本動かすだけで」選別、優生学の研究のために、多くの人達を残虐なやり方で犠牲にした、「死の天使」ドクター・メンゲレ。
 この「ノンフィクション小説」は、そのメンゲレの南米での逃亡生活を緻密な取材に基づき、小説形式で描いたものです。

 この小説で書かれている、メンゲレの逃亡経路や関わった人々は詳細な資料と取材に基づいたものなのですが、僕はこれを読んで、無力感というか、いたたまれなさ、みたいなものを感じずにはいられませんでした。

(1985年)2月4日からは、エルサレムのヤド・ヴァシェム・のホロコースト記念館で人道に対する罪を裁く模擬裁判が始まった。裁判長はアイヒマン裁判の元検察官が務めた。三夜続けて、メンゲレにモルモットにされた被害者が虐待についての証言をした。ツィガーヌの双生児を集めたブロックの看守役だった女性の記憶によれば、男性の双子の精液を女性の双子の子宮に注入して、双子を身ごもることを期待したが、胎内に一子しかいないことを確認すると、メンゲレは子宮から赤ん坊を引きずり出して火中に投じたという。またある女性は茫然として、自分は生後8か月の娘を殺すことになったと証言した。メンゲレは子供に乳を与えないために、女性の胸を縛れと命じた。乳を与えない乳幼児が何日生き延びるか知りたかったのだ。母親はずっと赤ん坊が泣き叫びつづけるのを聞いたあげく、ユダヤ人の医師から提供されたモルヒネをついにわが子に注入した。親衛隊員たちは銃床で新生児の頭蓋骨をつぶしたという女性もいれば、壁に眼球を蝶の標本のようにピンで留めたメンゲレの部屋の様子を詳しく語る女性もいた。これらの証言は衛星中継で世界に配信され、とてつもない反響を呼んだ。


 こんなことをした奴には、相応の「報い」があってしかるべき、だと思いました。
 ところが、メンゲレは裕福な実家からの支援や南米の元ナチスのネットワークを利用して逃亡生活を続け(逃亡生活、といっても、贅沢な生活をしたり、ワガママを言い続けたりしていたようです)、裁かれることもないまま、死んでしまいます。
 彼は、自分がアウシュヴィッツ収容所でやってきたことを「反省」することはなかったようです。
 それこそ「反省」すると、心がぶっ壊れてしまうから、だったのかもしれませんが。
 このメンゲレという人は、感情が欠落していた「実験マシーン」だったのかというと、そういうわけでもなさそうで、自分の家族に対しては、気配りをし、会えなくて寂しい、といメッセージを頻繁に送っています。
 お前のせいで(正直、あの時代のことは、メンゲレがやらなければ、他の人がやっていた(やらされていた)だけかもしれない、とも思うけれど)、何万人もの人が「愛する家族」を失ったというのに、自分だけは特別なのか!
 ……いや、人はみんな「自分だけが特別」なんだよな、僕もそうだ……

 これほどひどいことをした人が「畳の上で死ねた」という現実に、僕は打ちのめされてしまいます。
 逃亡生活は楽しくはなかっただろうけど、ガス室に送られたり、人体実験で亡くなった人のことを考えれば、「因果応報」なんていうのは嘘だよな、と思う。
 
 僕は「因果応報」という言葉を濫用する人に接するとき、いつも、頭の中で、1945年8月6日の朝の広島のことを考えることにしています。
 あのとき、原爆に焼かれて亡くなった人たちがみんな、そんな目に遭うほど悪いことをやってきたわけないだろ、と。

 人間の世界って、基本的に「因果応報」とか「勧善懲悪」じゃないんですよ。
 もちろん、他者に優しく接していた人は、感謝されたり応援されたりする可能性は高いけれど、それはあくまでも「確率を高める」ことでしかありません。
 善い人が長生きするというわけではないし、逆もまた然り。


 映画とか小説の「フィクション作品」について考えると、「フィクションなんだから、作品の世界のなかでの悪事とか違法行為にこだわりすぎると、何も描けなくなってしまう」
 というのは、けっして間違ってはいないと思う。

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 そもそも、「フィクション」には、「現実で多くの人が抱えている矛盾や、ままならないことを、架空の舞台の作品にして観客にみてもらう」という役割もある。

 その一方で、現実では善い人が幸せになるとは限らないし、因果応報なんて嘘だ、とみんな実感しているからこそ、「フィクションの中でくらいは、正義の味方に勝ってほしい、悪いやつらを成敗してほしい」という期待もあるのです。

 現実が変わらないのなら、せめて、映画や小説では「スッキリ」させてほしい。
 なんかどんよりとした「不快玉」みたいなものを投げつけられるために、1800円と2時間を提供するなんて虚しい、僕
もそう感じたことは一度や二度ではありません。

 それに、『崖の上のポニョ』のリサの無謀運転のように「人それぞれの『逆鱗』が異なる」というのも事実で、僕は『サマーウォーズ』の「伝統的な大家族」が、どうしても気になったし、最近では「子どもが酷い目にあうシーン」があると、それが「登場人物(悪党)の属性を示すための記号」なのだとわかっていても、やっぱり「観ていられない」気分になります。


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 「感想と評価は別だ」とは言うけれども、何かに対して、自分のこれまでの背景や経験から浮かびあがってくる「感情」と「評価」をキッチリ切り分けることは、誰にもできないと僕は思うのです。
 結局のところ、「間違った感想なんてない」し、「ハッピーエンドを好む人や、そうでない人、どっちでもいい人がいるのが当たり前」なのでしょう。
 とか言いつつ、僕もフィクションに対して、「これなんかスッキリしないなあ……」って思うことは多いのですけどね。


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