いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

『月刊I/O』と30年前のマイコン雑誌の記憶

参考リンク:月刊I/Oと僕の文章の秘密  - UEI shi3zの日記


月刊I/O』懐かしい!
僕がマイコンに興味を持った今から30年くらい前、いちばん最初に手に取った雑誌が『月刊I/O』だったんですよね。
当時、マイコン雑誌というのは、まだまだマイナーな存在だったのだけれども、マイコンブームに乗ってたくさんの雑誌が創刊されていきました。
I/O』は、そのなかでもいちばん分厚い雑誌のひとつでした。
(あとは『月刊マイコン』(電波新聞社)も厚くて重かった)
当時の書店での記憶として鮮明に残っているのが、ちょうどいまの僕の年齢と同じくらいのおじさんが、僕がページをパラパラとめくったあとの『月刊I/O』を手に取り、「イチ、ゼロ……なんだこれ?何が書いてあるのか全然わからん」と呟いていたことでした。
30年前の普通の人のマイコンの知識って、そんなものだったのです。
小学生が、なんかわけわからんものを読んでるな、って思ったのだろうなあ。


値段のわりにページ数が多い、という理由で買ってきて、家で読もうとしたのですが、僕も記事に書いてあることの意味がサッパリ分からない。
マイコンの回路図とか、マシン語のプログラムとか延々と掲載されていて、正直、読んで理解できるページは、ほとんどありませんでした。
後ろのほうにあった「秋葉原情報」とか、「売ります、買います」とかを読んで、買えるわけもない自分のマイコンに、思いを馳せたりして。
今の秋葉原は「オタクと萌えの聖地」なのだけれど、30年前は「電気製品の街」だったんだよなあ。
秋葉原では、電気製品を値切ることができるらしい」というのを聞いて、なんかめんどくさそうだなあ、とか考えていました。
田舎の小学生だった僕は、当時ポツリポツリとできていた「マイコンショップ」でデモを見るのが愉しみだったのですが、マイコンがズラッと並んでいるらしい、秋葉原というところに一度は行ってみたいものだと思っていたのです。
当時の読者投稿ページの価格表示では、「1000」=「K」と表記されていたんですよね。いかにもマイコン雑誌的、というか。5万円=「50K」と何の説明もなしに書かれていたのです。
それがわかったときには、ちょっとだけ成長したような気がしました。


記事の内容はほとんど理解不能だったのですが、マイコン本体とゲームの広告がたくさん載っていたので、それを見るのが『月刊I/O』の愉しみでした。
当時の『月刊I/O』で活躍していた人に、「芸夢狂人」という有名プログラマーがいたのですが、この人は医者で、「世の中には物好きな医者もいるもんだなあ」と感心した記憶があります。
のちに、『マイコンBASICマガジン』で、「チャレンジ!AVGRPG」というコーナーを担当していた山下章さんが一橋大学の学生というのを知って、「ここにも物好きな人が……」と感じたものです。
まさか、あれから30年経っても、山下さんが攻略本をつくり続けているとは、夢にも思わなかったよ……
ゲーム作りならともかく、ゲームを批評することが仕事になる時代が来るなんて。


マイコン雑誌は、機種別の専門誌が創刊され、『マイコンBASICマガジン』『ログイン』『コンプティーク』『ポプコム』『テクノポリス』などのゲーム寄りの柔らかい雑誌が主流を占めるようになっていきました。
ゲームの広告は、次第に『ログイン』とかに移行していって、『月刊I/O』はどんどん薄く、マニアックになっていった……というか、『月刊I/O』は変わらなかったのだけれど、周囲に比べたら、そう見えるようになっていったのでしょうね、今から考えると。


マイコンが家庭用テレビゲームに押され、「美少女ゲーム特集」とかが頻繁に行われるようになって、書店でレジに持っていきづらくなった時期にも、『月刊I/O』は、ひっそりと「パソコン雑誌コーナー」の片隅にいました。
それにしても、あれから30年後に残ったのが、昔とはすっかり変わってしまった『コンプティーク』と、だいぶ薄くなったけれど、昔の硬派なコンセプトからブレなかった『月刊I/O』だとは。


考えてみれば、いま小学生からお年寄りまで、「みんなが」使っているパソコンも、あの30年前のマイコンの延長線上にあるわけですよね。
僕の人生は、家庭用コンピュータの歴史とともにある。


昔のマイコン雑誌の話をはじめると止まらないので、今回このくらいにしておきます。


なんだか自分の話ばかりになってしまいましたが、『月刊I/O』通巻450号、おめでとうございます!



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