いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「人生最後の日にやりたいこと」と「毎日を人生最後の日のように、生きてみること」

参考リンク:意識高い(笑)論争によせて スティーブ・ジョブズと、一休さん。 - (チェコ好き)の日記


このエントリを読んでいて、思ったことなどあれこれと(かなり脱線していきます)。
上記エントリで紹介されている、スティーブ・ジョブズスタンフォード大学でのスピーチには、僕も感銘を受けました。
「毎日を人生最後の日のように、生きてみよう」
大きな挫折を何度も経験しながら立ち上がり、闘病生活もおくっていたジョブズの人生について考えずにはいられない、多くの人の心に突き刺さるスピーチだと思います。


しかし、僕はなんとなく、違和感もあったんですよね。
本当に人生最後の日でも、人間は一生懸命勉強や仕事をしたりして、自分を高める努力をするのだろうか?


ジョブズ自身も、闘病生活が終わりに近づくと、家族や友人たちとの時間を大事にしていたそうです。
仕事への情熱も、失ったわけではないようですが、体力的な面でも、限界があったでしょうし。


でも、「最後くらいは、大切な人と一緒にのんびり過ごそう」というのが「正解」だとするのなら、「毎日を人生最後の日として過ごす」ということは、毎日「ありがとう、ありがとう」とか言いながら、好きな映画などを観つつ、家でゴロゴロしている、みたいな姿を想像してしまうのです。


「もしも明日世界が終わるなら、私は今日リンゴの木を植えるだろう。」
これはマルティン・ルターが言ったとされている言葉で、たいへん美しく、僕もそういう人間でありたい、と願ってやみません。


しかしながら、「本当に明日世界が終わると信じているのなら、木を植えることに意味があるのか?」とも思うのです。
このルターの言葉には「それでも世界の未来や可能性を信じている」という前提があるのではないか、と。


伊坂幸太郎さんの『終末のフール』という小説のなかで、「地球があと3年で確実に寿命を終えるのに、子供を授かった夫婦」の話が出てきます。
彼らは、「どうせ3年で死んでしまう命を、世界に生みだすことの是非」について悩み抜くのですが、なかなか答えを出せないのです。
「生命というのは、いまを存在することそのものに意味がある」のか、「物心つくかどうかの時期に命を落とすことがほぼ約束されている命ならば、生まれることそのものが本人にとっては苦痛なのではないか?それを産み落とすことは、親のエゴではないか?」
(この夫婦の「選択」については、ネタバレは避けますので、よかったらこの小説を読んでみてください)


僕は「人間が本当に最後にやりたいこと、やるべきこと」と、「これが最後のチャンスかもしれないと、自分に言い聞かせてがんばること」は、違うのではないか、と思っています。
そして、「違う」からこそ、努力したり、日常を過ごしていくことができる。


宗教的な背景があって「勤勉こそ来世での救済への道」であると信じられるのならば(ルターが大きく関わった「宗教改革」により生まれたカルヴァン派は、まさにそういう考え方のようです)、「最後までがんばり続ける」のが正解なのかもしれないけれども。


人生最後の日の「ように」生きるには、「まだ人生が続くこと」を少しは期待していないと難しい。
人間って、つくづく「絶望できない、希望を前提にしてしまう生き物」だよなあ、と思うのです。

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