いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「優しさ」って、残酷だ。

映画『トゥルー・グリット』感想(琥珀色の戯言)


僕はこの映画を観てからずっと、「優しさ」について考えています。

(以下ネタばれなので、この映画をこれから観ようと思っている人は読まないでね)


この映画、主人公の女の子マティ・ロスは、父親の復讐を果たしたあと、荒野で毒蛇に噛まれてしまうのです。
このままでは、全身に毒がまわって死んでしまう。
マティに雇われた連邦保安官コグバーンは、そのことを知るやいなや、馬を駆って、治療ができる場所へと向かいます。
マティが大事にしてきた馬をビシビシと鞭で打ち、全速力で走らせます。
マティの腕は腫れあがり、意識朦朧。

もう少しで目的地、というところで、馬はついに力尽きて倒れてしまう。
そこでのコグバーンの行動に、僕は愕然としました。

いきなり銃を構えたコグバーン。
ためらうことも無く、馬の頭を打ちぬきます。ズガーーン。

そして、コグバーンは、マティを抱えて、歩いて目的地、治療ができる場所を目指すのです。

 

この馬を撃つ場面が、なんだか忘れられなくて。
いままで僕が信じてきた「優しさ」って、こういうときに、いままでずっと走ってがんばってきてくれた馬をなんとか助けようとして悩むとか、涙を流しながら、「ラクにしてやる」ために撃つとか、そういうのなんですよね、きっと。

でも、コグバーンは、そうじゃなかった。
彼は知っていたのです。
この馬はもう助からないことを。
このまま生きていても、苦しむだけであることを。
そして、マティを助けるためには、時間を無駄にすることはできないことを。


「優しさ」とは、何なのでしょうか?
「他人の気持ちになって考えること」「生き物の命を大切にすること」は、もちろん、「優しさのひとつの要素」ではあります。
しかしながら、極限状態に置かれたときには、あれこれ考えて迷うことが「残酷な結果」を生み出すこともあるのです。
この映画でいえば、馬を大事にしていたら、マティはたぶん、助からなかった。
もちろん、後付けで考えれば、馬を休ませながら走らせたほうが、馬がダメになるリスクも含めて考えると、マティが助かる可能性は高かったのかもしれませんが。


もちろん、平和なときには、平和な優しさが求められます。
優柔不断であることが「優しさ」のようにみえることも少なくない。


でも、いちばん大事なものを守るために、二番目のものを切り捨てなければならないこともある。
そうしなければ、どちらも失ってしまうのならば。
いざというとき、そういう決断ができるのが、「本当の優しさ」なのかもしれません。
そういう優しさを問われるような場面に、直面したくはないのですけど。

 

 

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