いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

『ど根性ガエルの娘』を読んで、「家族の問題」を作品にすることの難しさを思う。

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ど根性ガエルの娘』、僕も読んでいたのですが、正直なところ、読むのに疲れてきました。
 学生時代は、ハリウッドの量産型アクション映画をみて、「なんでこんなどれもこれも一緒にみえるエンターテインメント映画ばっかりつくられ、観られているのだろう? もっと人生の深みや陰を描いた重厚な作品がヒットすべきではないのか?」なんて思っていたんですよね。
 しかしながら、僕も40代になってみると、その理由がわかってきたような気がします。
 難病で死に向かっていくことや家族の複雑な問題というのは、「そのへんに煩わしいほど転がっているもの」であり、そんなものをわざわざ映画館で観て、暗い気分をフラッシュバックさせたくない、どうせだったら、映画館の、フィクションの中でくらい、日常ではありえない、ハッピーエンドの「冒険」に浸っていたい。
 まあ、ハリウッドのエンターテインメント映画にも「家族の問題」が含まれているものは多いんですけどね。


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 このブックマークコメントをみていると、「確かにこんな痛みが伝わってくる『作品』は、読むほうもつらいものなあ」って思うんですよ。
 創作者というのは、こういうのを読みやすくエンターテインメントに昇華するべきではないのか?
 これって、「毒親の被害を受けた、かわいそうな自分」をアピールしているだけではないのか?
 そんな家庭の問題を商売にするなんて、リアリティショーみたいなものだよね?


 そういう意見が出てくるのもわかります。
 僕自身も自分の親、とくに父親に対して言いたいことはあるのだけれど、正直、自分が年を重ねて、親になったこともあって、若い頃に感じていた「こだわり」みたいなものは薄れてきていて、むしろ、「親は親で大変だったんだろうな、自分の子供とはいえ、食べるのに困らないくらいのお金をたいした見返りも求めずにつぎ込み続けるって、けっこうすごいことだよな」とか、思うようにすらなっています。
 幼稚園への送り迎えをしたり、ご飯を時間をかけて食べさせること、そんなひとつひとつが「絶対にやらなければならないこと」の積み重ねなのだし。


 子供の親に対する感情って、大概、そういう感じで「美化」されていくのかな、と思っていました。
 しかしながら、この『ど根性ガエルの娘』の作者の大月悠祐子さんは、それができないくらい、傷つけられ、葛藤し続けているのです。
 漫画家だから、クリエイターだから、作品に「昇華」する、というのは、上手い方法だし、「特権」なのかもしれません。
 ただし、こうやって、「公にする」ということで、他の家族にとっては、「自分が手の届かないところで、大々的に言いたいことを言われている、責められている」ような気がするでしょうし、そもそも、「家族の問題を公にする」ということだけで、反発してしまう可能性が高いのです(ちなみに、ネットでの発言でも、同じことが起こりえます)。
 こういう話が出てくることは、『ど根性ガエル』というキャラクターにとっても、けっしてプラスにはならないでしょうし。
 赤塚不二夫先生は、いろいろ豪快な伝説を持っている人だけれど、だからといって、『バカボン』や『おそ松くん』の価値には関係ない、とは思うのだけれど、家族に告発されるというのは、赤塚先生の「やんちゃ」とは違うからなあ……
 ただ、なんというか、「他者が思いつかないような、独創的な仕事をする『規格外』の人間」に、家族以外の人がプライベートで「常識人であること」を求めるのは、過酷なのかな、と思うこともあるのです。
 いや、確かにいるんですけどね、「仕事もプライベートも正規分布外」っていう人がいる一方で、「ちゃんとしている」人も。
 独創的な仕事をする「ちゃんとしている」人って、「ちゃんとしすぎている」ことも多いと感じるのですけど。


 これを読んでいて、『検索禁止』という新書のなかで著者の長江俊和さんが紹介していた話を思い出しました。
 長江さんは、自らがかかわっていた『大家族スペシャル』の思い出を書いています。
 編集される前の撮影された映像をスタッフが集まってみる試写の中に、こんな場面があったそうです。

 ある地方に暮らす大家族。画面にはしばらくの間、大勢の子供に囲まれた、賑やかな家族の日常風景が映し出されている。だがある日の夕食のことである。高校生の長女の姿が、食卓になかった。穏やかそうな父が、兄弟たちに聞くと、テレビに出たくないと、部屋に閉じこもっているのだという。「みんな出るって約束したのにな」。そう言って父親は二階にある子供部屋に向かった。カメラも、その後を追う。
 子供部屋のドアを開けると、ふてくされた長女が勉強机に向かって座っている。どうして食卓に来ないのかと父が尋ねると、「テレビに出たくないから」と言う。突然、父は豹変する。娘に平手打ちを浴びせたのだ。一発だけではなかった。二発、三発。「みんなでテレビに出ると約束しただろ」。そう言いながら、父親は長女を殴り始めた。慌ててスタッフが静止しようとするが、父親は聞く耳を持たない。娘は必死に許しを請うが、父親は容赦しない。彼女の服が破けても、暴行は続けられた。再びスタッフが止めに入ると、父親は鬼のような顔でカメラを睨みつける。
「撮るな」
 怒鳴りつけるように言うと、スタッフを追い出し、力任せに子供部屋のドアを叩きつけた。閉じられたドアだけを映しているカメラ。中からは、娘を殴打する音と、「お父さんやめて」と懇願する声が響いている。やがて、その声も悲鳴に変わってゆき……。
 場面は変わった。畳の一画に、ポタポタと血のしずくがこぼれ落ちている。カメラを振り上げると、食卓についた長女が、鼻血をすすり上げながら味噌汁をすすっていた。唇の端からも血を流し、味噌汁を口に含むと痛そうに顔をしかめている。何事もなかったかのように、夕食を囲んでいる大家族一同。父の表情は、もとの穏やかな顔に戻っていた。しばらくすると、父が言う。
「やっぱり家族は、みんな一緒が一番いいな」
 どうやら異変は、その夜だけだったようだ。翌日からはまた、賑やかで楽しそうな家族の日常風景が映し出されていた。
 もちろん、父親が豹変した件の場面は、放送されることはなかった。


 ドキュメンタリーは、嘘をつく(by 森達也)。
 積極的に「嘘をつく」意図はなくても、編集や演出によって、他者に「見せたいところ」と「見せたくないところ」をコントロールすることはできる、「感動を生む」こともできる。
 というか、実際にそうされている。
 『ど根性ガエルの娘』第18話でのアスキーの編集者の対応を批判している人もいますが、これは、「多くの読者に受け入れてもらうための、編集者としてのひとつの判断」でしかありません。
 結果的に、このマンガは暴露路線で話題になっているのだから、それは的外れだったのかもしれないけれど、連載であれば、雑誌の全体的な雰囲気を壊してしまう、という考えもあるでしょうし、作者のことを心配した可能性もあります。


 「暴露」とか「家族や身内を責める」って、復讐というより、自傷行為に近いようにもみえるのです。
 たぶん、僕みたいに「まあ、親は親で、いろいろと大変だったんだよな」って「理解」してしまったほうがラクだし、大部分の人は、そうしている。
 でも、それができないほど傷つけられている人もいる。
 そして、その「怒り」は、台風のように多くのものを巻き込みながら吹き荒れる。
 作者自身の今後のことや精神的なダメージを考えれば、これは「書かないほうが良い作品」ではないか、と思うのです。
 ただ、そう言われても、ここまで来てしまった以上、本人にもどうしようもないのだろうけど。

 
 実際は、多くのノンフィクションやドキュメンタリーの「使われなかった関係者の話や映像」に、前述の「大家族スペシャルの話」みたいなのが含まれているのではないか、と僕は想像しています。
 子供の頃は、幸せじゃない家族はおかしい、と思っていたけれど、今は「問題がない家族は怪しい」と感じるようになりました。
 いや、実際はいるんですけどね、「99%くらい円満にみえる家族」って。
 でもさ、そういうのはほとんど「編集」されている。
 僕だって、他人にそういう話をするときには、嘘はつかなくても、「編集」したり、「改変」したりしています。
 地元が苦手でも、「どちらのご出身ですか?」と聞かれたら、「なかなか良いところですよ」くらいの言葉を、なるべく平静な顔をつくって、頭の中で舌打ちしながら吐いている。


 正直、僕はこの『ど根性ガエルの娘』第18話を読んで、「まあ、そういうものだよね」としか思わなかったのです。
 そして、大月さんの気持ちは伝わってくるのだけれど、これ以上関わると、自分も引きずり込まれそうで、怖くなりました。


 最後にひとつ付け加えておくと、「衝撃的な証言だから、この人が言っていることは100%事実だ」というふうに考えるのも危険ではあるんですよ。
 告発者だって、自分から見える世界を「編集」しているのだから。


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