いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

佐村河内守さんの「真実」という迷宮を記録した、森達也監督のドキュメンタリー『FAKE』

森達也さんの15年ぶりの監督作、ドキュメンタリー映画『FAKE』をDVDで観ました。
この作品、昨年、2016年の夏に公開されて、かなり話題になったのですが、近くに上映館がなくて観に行けず、今回、DVD化されて、ようやく観ることができたのです。


FAKE ディレクターズ・カット版 [DVD]

FAKE ディレクターズ・カット版 [DVD]


森達也・佐村河内守 衝撃のドキュメンタリー映画『FAKE -ディレクターズ・カット版-』DVD発売告知映像

『A』『A2』以来実に15年ぶりの森達也監督作。佐村河内守氏の自宅でカメラを廻し、その素顔に迫る。取材の申し込みに来るメディア関係者たち、ことの真偽を取材に来る外国人ジャーナリスト…。市場原理によってメディアは社会の合わせ鏡となる。ならばこの「ゴーストライター騒動」は、社会全体が安易な二極化を求めていることの徴候と見ることもできる。 はたして何が本当なのか? 誰が、誰を騙しているのか?
映画は、この社会に瀰漫する時代の病をあぶりだしながら、衝撃のラストへとなだれ込む。

 あの「現代のベートーベン」から、「耳が聴こえないふりをして、多くの人を騙したペテン師」に堕ちた、佐村河内守さんに、森達也監督が密着したドキュメンタリーです。
 森さんのことだから、きっと、「世間からバッシングされまくっている、佐村河内さんの側からみた世界」をフィルムに収めているのだろうな、と思っていたのですが、まさにその通りの作品になっています。


 揺れるカメラ、喋っていることが聞き取りづらい録音、窓の外には、電車が通るたびに轟音。
 森さんと、ごく限られたスタッフだけで撮影されているドキュメンタリーだけに、いろいろ「観づらい」ところもあります。
 でも、あの騒動でひたすらバッシングされまくった「ペテン師と呼ばれた男」の側から観た世界というのは、こんな感じなんだな、ということが伝わってくる作品なんですよ、これ。


 佐村河内さんは本当に耳が聴こえないのか?


 その疑問について、最初に「科学的な検査による診断書」を佐村河内さんは提示します。
 障害者手帳をもらえる対象にはならないけれど、検査の結果、「感音性難聴」は、たしかにある。
 にもかかわらず、ゴーストライターをつとめていた新垣さんは「聴こえないと思ったことは一度も無い」と証言している。
 このドキュメンタリー内では、佐村河内さんは奥様と主に手話でコミュニケーションをとりますが、言葉でのやりとりもあります。
 ただ、それが「聴こえているから」なのか、「相手にゆっくり喋ってもらうと、おおまかな音の感じくらいはわかるので、そこから類推したり、口の動きをみて判断している」のか、わからないんですよね。
 僕はこれを観ながら、これは「耳が遠い高齢者」に近いのかなあ、と思っていました。
 基本的に、人間、年を取ると、耳が聞こえにくくなるのです。
 大きな声で、ゆっくりとしゃべると、なんとか聞き取れるのだけれど、中には「聞こえない」と相手に言うのを恥ずかしがったり、遠慮したりして、適当に返事をしてしまう高齢者もいます。
 また、こちら側としても、「はあ?」と聞き返されたり、大声を出しても聞こえていなかったりすると、苛立つことも少なくないのです。仕事であれば、それはもちろん表には出さないようにするけれど。
 高齢者で耳が遠い人に対して、一般的には「耳がまったく聴こえない人」という認識はないですよね。
「聴こえるけれど、聴きづらい人」という認識です。
 あくまでもこの『FAKE』を観ての印象なのですが、佐村河内さんの「聴こえる」というのは、この高齢者の「耳が遠い」に近いのではないかな、と。
 だから、「声の大きさや速度を相手が適切にチューニングして話しかけてくれれば聴こえるけれど、普通に喋られても、『聴こえない』。
 少なくとも、生活していくうえで不自由はしているだろうし、音楽家の耳としてはハンディキャップがあるのは間違いなさそうです。


 これを観ると、マスメディアからバッシングされるというのは、ここまで人を孤立させるものなのか、と思い知らされます。
 奥様は実家と縁を切り、友達からの連絡は全くなくなり、飼っている猫と夫婦ふたりだけでの暮らし。
 外出もままならない状況です。
 テレビでは、あの事件をネタにしたバラエティ番組が放送され続け、一方の当事者である新垣さんは「時の人」としてもてはやされている。
 佐村河内さんは、新垣さんに対して、「あれだけ長年接してきたのに、なぜ『聴こえないフリをしている』とかいう嘘をつくのか」と仰っていました。
 そして、新垣さんへの「作曲の指示書」として、ノートにびっしり字が書き込まれたものを森さんに見せるのです。
 佐村河内さんは、譜面を書けない、そして、楽器もほとんど演奏できないそうなのですが、細かい文字で「その曲のコンセプト」らしきものが延々と埋め尽くされている「指示書」をみると、「これが本当に作曲の役に立っている、あるいは『共作している』という証拠になるのだろうか?」と考えずにはいられませんでした。
 プログラムであれば、フローチャートをつくる、ゲームデザインであれば、マップやシナリオを書くというのが大事なプロセスだというのは理解できるのだけれど、音楽で、「理念」みたいなものを長々と語っただけで「共作」したことになるのか。
 メロディの一部でもつくった証拠があれば、「共作」なのだろうけど……
(ちなみに、以前の作品のなかには、佐村河内さんがつくった部分のデータが形として残されているものもあるそうなので、「全く作曲ができない」ということはなさそうです)


 テレビ局のスタッフたちが、2014年の年末に、佐村河内さんへの番組出演の依頼をしたときの様子も収録されているのですが、スタッフたちは、けっこう礼儀正しく「佐村河内さんの主張をちゃんと視聴者に伝えたい」「茶化したり笑い者にするのではなくて、これからどうしていきたいのか、将来のことを語ってほしい」と言っていました。
 そうか、話題の人物への出演交渉っていうのは、「テレビに出してやるよ」っていう上から目線ではなくて、こんなに誠実な雰囲気を醸し出しているのか。
 結局、佐村河内さんは大晦日の「その年を振り返るバラエティ番組」には出演しなかったのですが、実際に放映されたその番組には、「ゴーストライター」である新垣さんが出ていて、共演者たちと「笑い」をふりまいていたのです。
 それを観た森さんは、佐村河内さん夫妻に言うのです。
 「佐村河内さんが出演していたら、違った内容になっていたかもしれませんね。彼ら(テレビ局のスタッフ)は、佐村河内さんの味方でも新垣さんの味方でもなく、ただ、そこにある材料で、いかに面白い番組をつくるか、だけを考えているんですよ」


 彼らには「訴えたいこと」があるのではなく、ただ「面白くすること」「視聴率を取れること」をしようとしている。
 明確な意図があるわけではないけれど、それだけに、歯止めや自制が効かなくなってしまうところもある。
 
 また、「告発」した記者や新垣さんが森さんの取材を受けてくれなかった、という話も出てきます。
 彼らは「逃げた」のか、それとも、「森達也という、いかにもめんどくさそうな人と関わるのを避けた」のか?
 なんともいえないなあ、という感じなんですよ。
 僕も、彼らの立場だったら、「佐村河内さんの側に立っている」ようにみえる森達也さんの土俵にあえて乗ろうとは思わないだろうし。
 ほんと、このドキュメンタリーをみていると、「なんともいえない」というか、「全部、嘘なんじゃないか?」という気持ちになってくるのです。


 後半、森さんのところに、外国人記者たちが取材にやってきます。
 彼らは佐村河内さんにまっすぐ切り込んでくるのです。
 外国人記者相手のほうが、かえって「本音」を話しやすそうな感じがするのは、なぜなのだろうか。言葉の壁が、かえってガードを甘くするのかもしれない。


 「佐村河内さんの耳が聴こえないのが嘘だ、と言いたいわけではありません。ただ、作曲家であるのならば、指示書とか言葉ではなく、実際に楽器に向かって、曲をつくっているところを、見せてほしい。そうすれば、疑惑は晴れるのですが」
 彼らは、「音楽家なのに、どうして家に楽器がないのか」と問い、楽譜が読めない、という佐村河内さんに、「なぜ、新垣さんと18年間も『共作』していて、自分で楽譜を読めるように勉強しなかったのですか?」と疑問をぶつけてきます。
 彼らの「問い」は、とにかく「嘘つき!」と責めようとする日本人の記者たちよりも、冷静だけれど厳しい。
 もっとも、佐村河内さんに対しては、NHKでクローズアップされたあと、「実際に曲をつくっているところが撮影できないから」と、採りあげるのをやめたテレビ局もあったので、日本のメディアがすべて「美談ありき」「バッシングありき」ではなかったのですが。
 森達也という人は、佐村河内さんに寄り添っているようにみえるけれど、けっして「盲信」しているわけではない。
 森さんが撮影してきた関係者の「映像」には、なんともいえない緊張感があるのです。
 登場人物は、感動の涙を流したり、喜んで拍手するわけではなく、固い表情で、カメラに向かっています。
 感情が枯れ果ててしまったのか、それとも、何かを隠そうとしているのか。
 人間の表情や声色には、文字では伝わらない「情報」がたくさんある。
 でも、それは必ずしも「正解」にたどり着くための近道ではなくて、その「情報」のおかげで、かえって困惑してしまうこともある。
 

 佐村河内さんは、本当に「音楽家」なのか? 作曲ができるのか?
 嘘をついているのは、佐村河内さんなのか、新垣さんなのか、メディアなのか?


 たぶん、100%の真実なんて、どこにもないのでしょう。
 嘘にしても、わざとついているものもあれば、自己プロデュースが行き過ぎてしまったものや、ちょっとした嘘がどんどん大きくなって、後戻りできなくなってしまったものもある。
 そして、世の中には「自分がついた嘘を自分で本当のことだと信じることができ、他人にも信じさせることができる人」もいる。
 劇場公開時に「秘密」にされていた、「ラスト12分間」を観終えて、僕は「やっぱり、わからないなあ」と溜息をつかずにはいられませんでした。
 感動的なシーンのようであるからこそ、それに「演出の要素」も感じる。
 そもそも、「事実を検証する方法」としては不完全です。
 森達也という人は、それを承知のうえで、あえて、その不完全さに言及しないまま、世の中に出しているのだと思います。


 人には、人の一面しか見えていない。
 これは「今まで伝えられることがなかった、佐村河内さんの視点」ではあるけれど、あくまでも、「カメラが回っているときの姿」でしかない。
 「嘘を見破るためのドキュメンタリー」だと思い込んでいた僕は、観終えて、「これは、ある物事の真実なんて、そう簡単にわかるようなものじゃないな」と、嘆息せずにはいられませんでした。
 でも、なにかを信じないと、人は、あまりにも生きづらい。


www.excite.co.jp


fujipon.hatenadiary.com