いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

僕の父親と千代の富士が並んでいる写真が、実家にあるのです。

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 千代の富士、逝く。
 僕にとっては、子どもの頃みていた「最強の力士」が亡くなってしまったわけで、あまりにも強くてみんなに愛されている千代の富士がどうしても好きになれず、ライバルだった隆の里のほうをひっそりと応援していた記憶があります。


 この訃報を聞いて、僕は実家にある一枚の色紙のことを思い出しました。
 それは、もう30年前くらいに、僕の父親がもらってきた、千代の富士の手形なのです。
 その横では、笑顔の父親千代の富士が並んで写真に収まっています。
 大横綱のタニマチ、になれるほどの大金持ちではなかった父は、地元に千代の富士が巡業に来た際に励ます会のようなものに出席して、これをゲットしてきたのです。
 父によると、「この手形と写真のために、けっこうなお金を遣った」のだとか。
 そうやって、子供たちに有名人とのツーショットを自慢しようとした父親のもくろみは、見事に外れてしまいました。
 中学生だった僕は、そうやってお金の力で有名人とのつながりのようなものを一時的につくって、それを周囲に見せびらかすという父の俗物っぷりになんだかとても腹が立ち、父親を責めました。
「こんな写真に何の意味があるんだ。そもそも、金で買ったんだろうよ」
母親も「そんなお金があるのなら、もっと他のことに遣えばいいのに……」と珍しく愚痴をこぼしていたのを覚えています。
父親は、怒るでもなく落ち込むでもなく、黙って、その色紙と写真を応接間に飾っていました。
それは、いまでも実家に置かれています。
気を留める人もないままに。


僕の両親は、ともに50代で亡くなっていて、当時としても平均寿命よりもだいぶ短い人生でした。
それを考えると、僕の人生の残りも、あと10年くらいなのかな、と最近ふと考えています。
僕の年齢のときには、4人の子どもを抱え、小さな組織ではありましたが経営者としてそれなりに活躍し、収入もあって、その収入を夜の街でさんざんばらまいてきた人ではありましたが、あの頃、父親をつまらない俗物だとなじった僕の現在地は、なにをやっても中途半端で、横綱を励ます会で家族に呆れられるほどのお金を包むほどの財力も甲斐性もなく、今後の生活もどうなることやら、という感じなのです。


千代の富士九重親方)の訃報を知って、いちばんに思い出したのは、実家にある色紙のことでした。
なんであのとき、僕は「おお、千代の富士に会ったなんてすごいね!」って、少しだけ自分を押し殺して、言ってあげなかったのだろう。
それこそ、減るもんじゃないし、少しくらい小遣いだってもらえたかもしれない。


親を乗り越えるっていうのは、簡単なことじゃない。
こんな予定じゃ、なかったのに。
すぐ、周回遅れくらいにしてやるはずだったのに。



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