いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「慰安婦像ツイート炎上事件」について、筒井康隆ファンのひとりとして思うこと


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 僕は高校生のときに『48億の妄想』を偶然手に取って以来、筒井康隆さんの大ファンであり続けています。
 そもそも『48億の妄想』は、1965年に書かれたものであり、30年前の時点で、すでに20年くらい前の作品だったんですよね。
 にもかかわらず、筒井作品には「いま、ここにある現在」が描かれていました。
 差別とかエログロをあえて描く、という筒井作品は「潔癖な男子」だったはずの僕にはすごくインパクトがあったのです。
 筒井さんが描く『悪』は「露悪的」であり、そこには「綺麗事で覆い隠されているもの」を面白おかしく引きずり出してやろう、という意思を感じていました。
 ……というのは僕の「読者的きれいごと」であり、一種の「こわいものみたさ」とか「見世物小屋的な興味」のほうが大きかったのかもしれませんが。

 ただ、筒井さんは、ずっと「露悪的エログロ作家」であったわけではなくて、ずっと新しい文学の世界を開拓することや時代に流されることを厭わなかった人でもあります。
 僕がラテンアメリカ文学への興味を持つようになったのは筒井さんがきっかけですし、『残像に口紅を』という「どんどん『言葉が消えていく作品』」には驚かされ、『虚構船団の逆襲』では、作品に対する批評に対して「批評返し」という技をみせてくれました。
 1991年から朝日新聞に連載された『朝のガスパール』では、パソコン通信を使って、「読者参加型小説」を試みておられます。
 いまでも現役作家として活躍されているだけでなく、ライトノベルに挑戦した、なんていうこともありました。
 『銀齢の果て』では、「老い」をテーマに書かれていて、自分自身に対しても「批評的」な姿勢をみせています。
 日本の作家で、50年前に書かれた小説の文庫が田舎の新刊書店でも容易に手に入るという人は、西村京太郎さんと筒井さんくらいではなかろうか。
 ずっとトラベルミステリーの西村京太郎さん(それはそれですごいことだけれど)に対して、つねに新しいジャンルへの挑戦を続けてきた筒井さんは、本当にすごい作家なんですよ。
 

 まあでも、率直なところ、僕は筒井さんの大ファンなだけに、冒頭の「少女像への言及」に関しては、困惑しているのです。
 「さすがにこれは確信犯的パロディとしては悪趣味すぎるというか、韓国の人も怒るだろう」というのと「こういうことを露悪的にやるのが、筒井康隆が自らに課した役割であり、ネット社会で炎上することは承知のうえで『小説家は河原者』であることを貫いていることに圧倒される」というのと。
 いやしかし、大好きな作家が賛同しかねることを言ったり書いたりしているときって、ちょっと困りますよね。
 中島らもさんの「大麻解禁論」にも、「らもさんらしいけれど、それはちょっと……」と、思ったものです。
 実際のところ、アメリカでは「大麻で逮捕される人があまりにも多く、(いちいち取り締まるのは)コストに見合わない」という理由もあって、個人的な使用に関しては、取り締まらない、という州が増えてきているそうです。
 だから、日本でも解禁しろ、というわけじゃないんですけどね。
 使わなくてすむなら、そのほうが良いのだろうと思うし。


 今回の件、もし、書いている人が筒井さんでなければ、僕は「アホか!」と一蹴できていたはずです。
 「これは『批評的なもの』ではないのか」とか考えてしまったり、「こういう物言いで、あえて社会に一石を投じる」というのも、作家の仕事ではないのか、と思ったりするのも、筒井さんが大好きだからなんですよね。
 ネットでは、誰が言ったかではなく、何を言ったか、だというのは、幻想ではないのか。


 ビートたけしさんが、『テレビじゃ言えない』という新書の冒頭で、「テレビの自主規制が年々ひどくなっていて、以前のような言いたい放題、やりたい放題がドンドンできなくなってきている」と仰っています。

 だからなのか、このところ、こんなことを言われるようになっちまった。
「近頃、たけしはテレビで毒舌をちっとも出さない。そもそもあまりしゃべらなくなった」
 もっともなツッコミかもしれない。でも、反論したい気持ちは正直あるぜ。実は、収録でガンガンしゃべってたって、放送ではオイラのコメントがスパッとカットされちまうんだよ。テレビでやるには、話す内容が危なっかしすぎるってことなんだよな。


(中略)


 それでも業界じゃ、まだまだ「たけしルール」ってのが存在するって言われてるんだぜ。他のタレントじゃ「完全アウト」で大問題になっちまいかねない内容でも、オイラの発言ならなぜかセーフになっちまうってことでね。まァ、そりゃ当たり前だよ。ここ何年かで芸能界で顔が売れてきたくらいのヤツと、40年以上この世界で生きてるオイラじゃ年季がまるで違う。「掟破り」ってのは、一朝一夕にはできない芸のひとつなんだよ。3年ほど前には『ヒンシュクの達人』なんてタイトルの本を出したくらいで、これまでサンザン事件を起こしてきた分、オイラも「ヒンシュクの買い方」については心得ているつもりだ。バカなキャスターが人工透析の患者をネットで誹謗中傷して全番組を降板したなんて話もこあいだあったけど、そんな低レベルなものと一緒にされちゃ困るんだよな。


 やっぱり、「たけしさんだから、しょうがないな」っていうのは、あると思うんですよ。それはもう、年季というか、人望の積み重ねだから仕方が無い。
 松本人志さんも、そういう「役割」を担って、『ワイドナショー』をやっているようにみえます。
 ただ、「人によって、セーフとアウトのラインが違う」というのが正しいことなのか、僕はちょっと納得できない感じもするんですよ。
 そういうふうに考えるようになったのは、インターネット社会で、みんなが発言できるようになったから、なのかもしれません。


 そういう「みんながお互いの問題発言を監視するようになった社会」だからこそ、「道化師」として、芸人や作家は、あえて「世の中の正しさ」(あるいは「国益」)に反したことを言って、風穴をあけるべきではないのか?
 いや、そんな「特権階級」など、もう存在が許されないのではないか?


 難しいですよね、本当に。
 この件に関して、僕は自分が「他者の発言や行動を、その内容ではなく、その人のことを好きかどうかで判断する傾向がある」人間であることを認識せざるをえませんでした。
 行為そのものに対する是非以前に、好きな人がやることなら許せる理由を探すし、嫌いなヤツの言葉にはツッコミどころを見つけようとしてしまう。
 実際は「好きな人でも、良いことばかりを言ったりやったりするわけではないし、逆もまた真なり」なのは、頭では理解できているつもりなのだけれど。

 
 以前、東日本大震災に対して、Twitterで不謹慎な発言が問題になった、アメリカのコメディアンがいました。

blog.livedoor.jp


 こういうのって、結局のところ、言う人がコメディアンであろうと「議論の閉塞感に風穴をあける」とかいう目的があったとしても、「言われる側、やられる側にとっては不快」なんですよね。
 筒井さんは筒井さんなりの覚悟があってやっているのだと思うけれど、韓国の人たちが怒るのは当然の話です。
 そもそも、筒井さんはこういうことになるのは百も承知のはず。


 筒井さんに晩節を汚してもらいたくない、とファンとしては思う。
 でも、本人にとっては、晩節とか勝手に決めるな、自分はまだ生きているし、言いたいこと、言うべきことを言うんだ、という気持ちもあるのかもしれません。
 筒井さんは「ネットに初期から接しているし、その便利さも怖さもよく知っている人」なのだと思います。
 ただ、その「自分は知っている」という自信こそが、「自分なら覚悟もできているし、コントロールできる」という過信につながっているようにもみえるのです。

 
 僕は筒井さんが大好きで、尊敬していますし、自分の人生を変えた作家だと思っています。
 こういうのも「筒井さんらしいな」と許容したくなります。
 ただ、この少女像に関する文章に関しては、面白くもなければ、非難囂々になるほどのインパクトもない、ただ刺激的な言葉を使っているだけの「炎上商法」みたいなものにしかみえず、正直、「あの筒井さんも老いたのかな……」と感じました。
 「老いる」のは悪いことじゃないし、「老いると人はどうなるのか」を自分自身を実験動物にして研究しているような人ではあるのだけれども、そういうのもワンクッション置かずに「発信」できてしまうインターネットは怖い。
 SNSを使いこなしてきたと思っている人たちが高齢化していくと、今後、このような「問題発言」は、さらに可視化していくのではなかろうか。


創作の極意と掟

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朝のガスパール

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残像に口紅を (中公文庫)

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