いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「日常」や「普段」を記録するということ


teracy.hatenablog.com


突然の娘さんのご逝去、どんなにお辛いことかと思うと、言葉もありません。
心よりお悔やみ申し上げます。


このエントリを読んで、僕も自分と子どもたちの記憶と記録を考えずにはいられませんでした。
僕自身が子どもの頃に比べると、デジタルカメラの普及で、記録を残すハードルというのは、すごく下がっていると思うのです。
僕は自分の親の若い頃の姿というのを写真でしか見たことがありません。
いまの70〜80代くらいの人で、若い頃に動画で撮影されたことがあって、その記録が残っているのって、芸能人とか政治家のような特別な存在の人だけですよね。
僕が子どもだった40年前くらいは、テレビのロケがあると、「テレビに映りたい人」たちが集まってきて、押し合いへし合いしながら、一生懸命ピースサインをしていたものです。


今は、デジタル化によって、けっこう簡単に写真や動画を撮影できるし、消すこともできる。
うちには、2人の男の子がいて、長男は8歳、次男は2歳です。
小学校や幼稚園でのイベントや誕生会など、ことあるごとに写真や動画を撮ってはいますが、あまりキチンと整理しておらず、観たいときに観たいものを探すのが大変です。というか、案外、観ないものなんですよね、日常に追われていると。
撮影するだけで、満足してしまうところもあって。


このエントリを読んで、あらためて考えたのです。
こういう自分や子どもたちの記録を見直してみて、あらためて思うのは、僕は「日常」や「普段」を記録していないなあ、ということなのです。
運動会とか発表会とか旅行とか、そういうときの記録はあるのだけれど、日頃、ブロックやミニカーで遊んでいる姿や、兄弟でじゃれあっている姿、ご飯を食べているところ。
そういう「日常」は、いつでも観られる、いつでも撮影できる、と思っているうちに、時間はどんどん過ぎていきました。
本当に「見たい」のは、よそ行きの澄まし顔ではなくて、そういう姿なのかもしれないのに。
泣いている顔や、つまらなそうにしている顔も、大事な一面なのに。


僕は歴史の本を読むのが好きなのですが、いろんな歴史の記録を読んでいて思うのは、「普通の人の普通の生活は、ほとんど記録に残っていない」ということなのです。
みんなが「そんな当たり前のこと、記録する必要はない」と見なしてしまうからなんでしょうね。
「何も日記に書くことがない一日」に、どんなものを食べていたのか、買ったものはいくらだったのか、どんなものを着ていたのか……
そういうことって、みんなが「どうでもいいこと、みんなが記憶していること」だと思い込んでいるから、結局、ほとんど誰も記録しない。
そして、記憶って、案外すぐに失われてしまうのです。


それでも、世の中には「記録魔」みたいな人がいて、江戸時代に東海道を旅して、そこで何歩で次の宿場に着いたとか、団子がいくらだったとかを詳細に記録しています。
そういう「当時の人には、当たり前すぎて(あるいは、面白みがなくて)、記録する価値がないと考えていたもの」が、後世の歴史研究にとっては、大きな意味を持っているのです。


僕が子供時代の写真を見せられたときに寂しく感じたのは、そこにあまり親の姿がないことでした。
自分自身の子どもの頃の写真って、本人はあまり興味がない、あんまり見たくない、ということもあるんじゃないかな。
そこに当時の親の若い頃の姿がうつっていると、そちらのほうに心惹かれてしまうのです。
ああ、こんな顔で、子どもの頃の自分を見ていたのだな、というのは、本当に貴重な記録であり、記憶を呼び覚ますためのトリガーになります。


fujipon.hatenadiary.com


格闘家のボブ・サップさんが、著書のなかで、こう仰っています。
東日本大震災のあと、自ら福島県に支援物資を届けにも行ったときの話です。

 ファイターの仕事は、試合をすることだけではないと強く感じた。
 避難所では、小さな子供たちをオレの太い腕で抱き上げ、何枚もの記念写真を撮った。彼ら彼女らが大きくなったとき、ボブ・サップというファイターと写った写真を見て、自分の両親や家族が乗り越えてきた3・11の苦難と奮闘に、必ず思いを馳せることだろう。そのとき、子供の明るい未来を願い、シャッターを押したであろう家族の優しさを感じてくれたら、これに勝る喜びはない。

 ボブ・サップさんは「自分と一緒に写った写真を見て、自分のことを思い出して元気を出してほしい」というのではなく、「その写真を残すことで、写っている子どもたちが大人になったとき、シャッターを押した家族の姿と願いを思い出してもらえたら嬉しい」と言っているんですよね。
 「あのボブ・サップ」と一緒に撮った写真は、きっと、みんなが大事に飾っておくだろうから。


 何かを記録することには、記録した人の意思があり、記録した人の「愛情」や「願い」や「祈り」が込められている。
 今は、「日常」や「普段」を記録することが簡単にできる時代なのに、みんな、特別な日や出来事ばかりを残そうとしてしまう。
 もちろん、そういう特別な日を記録するのは悪いことじゃないけれど、いつか自分やそれを観る人を暖めてくれるのは、「日常の姿」なのかもしれません。


 でも、本当に大事なのは「記録すること」よりも、「いま、ここでちゃんと話したり、触れ合ったりしておくこと」なんですよね。
 そして、「記憶すること」と同じくらい、「忘れていくこと」にも、意味があるのだと思うのです。


野獣の怒り

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