いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「続けている」のではなくて、「変えるのが怖い」だけなんだよな、きっと。

moarh.hatenablog.jp


これを読んで、なんだかとても書きたくなったので。


僕自身、いまの自分の立ち位置に、かなり悩んでいる。
同じくらいの年齢の人たちは、大学の医局で偉くなった一部を除くと、そろそろみんな「自分の道」を模索している。
医局を離れて就職したり、開業したり。
ごく一部の選ばれた人を除けば、定年まで居られるような組織ではないし、どこかで踏ん切りをつけなければならないし、正直なところ、僕くらいの年齢(40代半ばくらい)になると、向うも取り扱いに困っているのだろうな、というのも感じる。
派遣するとしても、あまり条件が悪いところへ、というわけにはいかないが、条件の良いところなんて、そんなにあるわけでもない。
もともと、そんなに優秀、というわけでもないしね。
それでも、いきなり辞める、とか言うと、それはそれで「派遣先に人が出せなくなって困る」とか言われたりする。
そもそも、医局派遣というのは、安定した職場を提供する代わりに、条件としては、あまり良くないことも少なくない。
相手だって、安定して医者を確保できることと、そんなに好条件を提示しなくても良いというメリットのために、医局と仲良くしているのだ。


僕は、そろそろ、そろそろ、と思っているうちに、ダラダラと続けてしまう人間で、環境を変えるのが大の苦手だ。
とはいえ、今の状況に満足しているわけでもないというか、ずっとこれだと、たまんないな、とすら思う。
でも、辞めよう、変えようと思うと、めんどくさいとか、大丈夫なのかな、とか迷ってしまう。
本気になって探せば、行き先なんて、いくらでもあるはずなのに。
これからさらに年をとっていけば、いちばん働ける、稼げる時期に買い叩かれ、条件が悪くなってから職場を変えることになるのも、わかっているのに。


ここで辞めたら、みんなに迷惑をかけるのではないか?
そんなことも、考えてしまう。
僕は有能ではないが、この業界、そんなに代わりの医者がすぐに見つかるものではない。
そもそも、ただでさえキツイのに、人が辞めれば、残った人たちには、さらに負担がかかる。
そうすると、耐え切れなくなって、また人が辞める。
だが、「あなたがやめたら、もうやっていけなくなる、なぜ辞めるのか?」と責められるのは、「最初に辞めた人」ではなく、「最後の最後まで、踏ん張った人」なのだ。
どうせ勇気を出すのなら、早いほうがいい。
沈む船からは、なるべく最初に脱出したほうが、つらい光景を目のあたりにしなくてもすむ。
頭では、わかっているつもりなのだけれど。


まだ若かった頃、15年間くらいだったか、同僚の女性医師が結婚・妊娠して、休職することになった。
そのこと自体は、大変にめでたいことだ。
だが、その影響で、僕たちはかなり疲弊してしまった。
当直の回数が増え、アルバイト先の比較的ラクな病院には彼女が行くことになり、僕たちにはハードな病院が割り当てられた。
一日の仕事を終えたあと、さらに当直で徹夜で働かなくてはならない病院に行くのはつらい。しかも、そんなにアルバイト代が高いわけでもない。
ただでさえギリギリのところに、さらに負担が増えて、もともとキャパシティが小さい僕にとっては、思い出したくもない日々だ。
結婚や妊娠はめでたいことだし、いつか僕やその配偶者も、それで誰かに迷惑(って言うと、怒る人もいるかもしれないけれど)をかけることがあるかもしれない、それは頭ではわかっていたのだ。
そういう「本来想定されているべきはずの要因」で、ガラガラと崩れてしまうようなシステムをつくっている偉い人たちが悪い、本来はそうなのだ。
でも、そのときの僕の負の感情の大部分は、結婚・妊娠した彼女に向かっていた。
それがあなたの権利であり、悪いことじゃないのはわかっている。
でも、なぜ今なんだ、なぜ僕たちが、そのしわ寄せで、こんなにキツイ目にあっているのだ。


ある女性医師が、こんなことをつぶやいていた。
「ずっと子供が欲しいと思っていたのだけれど、今、この職場で休んだら、みんな迷惑するだろうな、って思ってしまって、その繰り返しで……迷惑をかける踏ん切りがつかないまま、こんな年齢になってしまったんだよね……」


誰かが妊娠・出産するというのは、めでたいことだ。
それは周囲もサポートしてあげなくちゃ、と僕も思う。
だが、実際にその現場にいて、影響を受ける立場になったときの僕は、まったくもって寛容ではなかった。
もちろん、本人に直接文句を言うことはなかったし、彼女は彼女の人生を全うしようとしていたことは、頭ではわかっていたのだけれど、傍観者として、「みんなそうするべきだ」と思うことも、当事者にとっては、そう簡単に受け入れられないことを、痛感せざるをえなかった。
そんなふうに「悪くない彼女」を呪ってしまう自分がイヤになったけれど、毎晩、寝るときに(眠れれば、だけど)、「これで起きたら、また仕事か……」と考えると、眠ってしまうのが怖かった。


ネットは、往々にして「正しすぎる世界」になりがちだけれど、それはあくまでも「他人事の世界だから」なのではないか、とも感じる。
世界から殺人事件が無くなる、と信じることができる人は、そんなに多くはないだろう。
しょうがないね、世の中、そういうものだからね。
だが、自分や親しい人が、それに巻き込まれるのを「そういうものだからね」と許せる人は少ないはずだ。
自分だって、「世の中」の一部のはずなのに。
僕だって、そういう人間のひとりでしかない。
「当事者」になってみないとわからないつらさもある。
とはいえ、「当事者はつらいんだから、妊娠・出産するな!」なんて言うのが「正論」になる社会というのが、良いとも思えない。
むしろ、そういう「自分だけは関係ないと思っている正論主義者」がいるからこそ、世の中は破綻しなくてすんでいるのかもしれない。
なんでも「当事者」として受け止めてしまう人間がいたら、精神的にもちそうもない。


結局のところ、必要なのは、正しさよりも、誰かに迷惑をかけても、自分がやりたい、やるべきことをやってみるという「覚悟」とか「開き直り」なのだろう。
もしくは、他人の顔色を気にせずに、「やりたくないことは、やらない」という勇気。
もちろん、あまり恨まれないような「配慮」も、あったほうが良いだろうけど。


ある人が、僕に言っていた。
「あんまり心配ばっかりしていてもはじまらないよ。環境を変えてみて、それでダメなら、また次を探せばいい。自分の居場所がみつかるまで、探せばいい。一度でうまくいくほうが珍しいし、一度自分から変える経験をしてみれば、それが、そんなにたいしたことじゃないって、きっとわかるよ」


きっと、「みんなのため」なんていうのは自分への言い訳で、「変わるのがめんどくさい」「嫌われるのが怖い」だけなんだよな。
最終的には、自分の人生の尻拭いは、自分でやるしかないのだ。


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