いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

元少年Aの『絶歌』と「凡庸な悪」について

www.asahi.com



この手記が、いま、話題になっています。
僕自身、あの事件には衝撃を受けましたし、あの「少年A」が当時、何を考えていたのか?そして、いま、どう考えるようになったのか、興味はあります。
しかしながら、この手記は、被害者の遺族の許諾は得ておらず、「批判があるのは承知だが、社会的な意義はあると思う」という出版社側の意向で、発売されることになったそうです。


本当に、それで良いのか?
僕はやっぱり、何か違う、とは思う。


では、何が問題なのか?
あのような事件を起こした犯人が、こうして「自分のこと」を本にして世間にアピールすることに自体が悪いのか?
被害者はもう何も発言することができないのに、被害者の遺族にさえ許しを得ずに出版することに問題があるのか?
自分が犯した罪をネタにして、印税を稼ぐべきではないのか?


この本に対して、ネット上でも、さまざまな意見が出ています。


shiomilp.hateblo.jp


d.hatena.ne.jp


「商売」とはいえ、「思想・表現の自由」があるとはいえ、書店員さんにだって、「ぜひ売りたい本」もあれば、「個人的には売りたくない本」もあるんですよね。
でも、個人書店ならともかく、大手書店の一店員という立場だと、自分の意思で、この『絶歌』という本を仕入れない、並べない、売らない、というのは難しいと思う。まちがいなく「売れる本」だろうし。
「積極的に宣伝しない」くらいの選択肢はあるとしても。


d.hatena.ne.jp


この『絶歌』に関しては、書店にばかり責任を負わせるわけにはいきません。
ある店が「取り扱わない」と決めたところで、買いたい人は、他所の書店やネット書店で買うだけではないか、それなら、うちで買っても同じことだろう、という意見もあるはず。
ネットでも「患者に害があるようなニセ医療の本を積極的に売りさばいていることのほうが、よっぽど罪深いのではないか?」という声があります。
僕も、それはそうかもしれない、とは思う。


僕はこの書店員さんのブログを、夜中にふと目を覚まして読みました。
ちょうど、6歳と8か月の2人の息子に挟まれて、寝ていたんですよね。
2人の寝顔を見比べながら、もし、自分の息子が、あんな事件の被害者になって、そのうえ、犯人が本を出して「自分の事情」を語り、印税で稼ぐ、なんてことになれば……被害者の家族も、このときの僕と同じように、明日もこの寝顔を見られるのが当たり前、だと思っていたはずなのに。
その欠落は、たぶん、ずっとずっと続いているし、これからも続いていくのでしょう。
遺族に罪はないはずなのに、ずっと、ずっと。


ただ、僕はこんなことも考えました。
加害者「少年A」の親も、あの事件まで、さまざまな不安を持ちながらも、自分の子どもと接してきて、「子どもとはこんなものなのではないか」と思っていたのかもしれない、と。
想像したくはないことだけれど、うちの息子たちが「少年A」にならないという絶対的な確信は、僕にも持てない。
もしかしたら、「少年A」の言葉を読めば、彼があのような事件を起こしてしまったターニングポイントみたいなものがわかって、自分の息子たちを「そちら側」に行かせずに済むかもしれない。


この本とその内容に関して、いったい、誰が責任を負うべきなのか?
著者の「少年A」は、「書くことが自分を救済してきた」と述べているそうですし、露悪的にいえば「なんのかんの言っても、読みたい人がいるんだろ」、性善説にもとづけば「自分の経験を語ることで、同じような犯罪を予防できるヒントになるかもしれない」。
出版社は「買うか、読むかは読者の判断」だし、「嘘や誹謗中傷が書かれていなければ表現の自由」だし、「社会的な意義はある」。
書店は「書店が本を思想や著者の属性によって選別すべきではない」し、「最終的に買うかどうか判断するのはお客様」。
読者は、「だって、興味があるんだもの」だし、「今後の再発防止に役立つかもしれない」し、「そもそも、何を読むのも、こちらの自由だろう」。


遺族感情は重視すべきだと思うけれど、現実的には、内容が名誉毀損にあたるようなものでなければ(いや、いくら時間が経ったからといって、自分の子どもが殺められた様子を書かれるのは、名誉毀損なのかもしれないけれど)、「差し止める」のは難しい。
「社会的意義」という「大義」の前では、「個の感情」は、軽んじられてしまうのです。


結局、みんながそれぞれ、「自分以外の誰かのせい」にできるシステムが、できあがってしまっているのです。
まあ、世の中そんなものだ、しょうがない。これもひとつの「商売」ではあるのだし……


でも、本当にそれで良いのだろうか?


この本の「出版責任」みたいなことを考えていて、僕は、ハンナ・アーレントさんのことを思い出しました。


ハンナ・アーレント - 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』(矢野久美子著/中公新書)より。

 アイヒマンを怪物的な悪の権化としてではなく思考の欠如した凡庸な男と叙述した点である。紋切り型の文句の官僚用語をくりかえすアイヒマンの「話す能力の不足が考える能力ーーつまり誰か他の人の立場に立って考える能力ーーの不足と密接に結びついていることは明らかだった」と彼女は述べた。無思考の紋切り型の文句は、現実から身を守ることに役立った。こうしたアーレントの見方すべてが、アーレントは犯罪者アイヒマンの責任を軽くし、抵抗運動の価値を貶め、ユダヤ人を共犯者に仕立て上げようとしていると断言された。アーレントにたいする攻撃は、組織的なキャンペーンとなり、アーレントは実際にテクストをまったく読んでいない大量の人びとから追い詰められることになった。


話の大きさがあまりに違いすぎるのかもしれないけれど、人って、自分の良心に反するようなことでも「誰かからの命令」だと、受け入れ、実行してしまえるものなのです(その一例として、『ミルグラム実験』『スタンフォード監獄実験』などが知られています)。


僕はもし自分がアイヒマンの立場だったら、自分の良心にしたがって、ホロコーストの実行を拒否できただろうか?と想像してみます。
たぶん、僕は、唯々諾々と、ガス室のスイッチを入れていたのではなかろうか。
それは「上司からの命令」で、「いまは戦争中」で、「自分がこのスイッチを押さなければ自分の身が危険で、自分がやらなくても、どうせ、他の誰かがやること」だから。


これは「書店」「出版社」だけの問題じゃないんですよね。
買う人の問題でもあるし、僕自身にとっては「こういう本の感想を書いて、ネットで拡散する人」の問題でもある。
たとえば、Twitterで誰かが行ったデマや誹謗中傷のtweetを、信じ込んでリツイートしてしまった人に、罪はあるのか?
その人だって、たぶん「自分も騙されただけ」だと主張したいはず。
でも、「あの人がリツイートしたから信じてしまった」という人に対しての「責任」みたいなものは、全く無いのだろうか?


僕自身、これまで、犯罪をおかした人たちの著書を紹介することにためらいはあまり感じていませんでしたし、正直、そういう本を「面白い!」と薦めてもきました。
そこに、思想性はなかったのです。
面白ければ良いのではないか、と、そこで思考停止していました。


でも、この『絶歌』については、悩んでいます。
何をいまさら、って感じではあるけれど。
正直、読んでみたい、とは思うのです。
ただ、遺族の気持ちを踏みにじってまで読むべきか、そして、「感想」をネットに書くことを自分自身に許すのか?


大部分の人間は、「凡庸な悪」なんですよ、アイヒマンのような。
むしろ、「凡庸な悪」だからこそ、「とんでもないこと」ができてしまう。
いや、それを「悪」だと呼ぶべきではなくて、それが「普通」で、世界には、ごく稀に、そういう暗闇に「一筋の善性」みたいなものが輝くだけなのかもしれません。
何かを、誰かのせいにしているかぎり、人は「凡庸な悪」から逃れることはできないのです。
と、偉そうなことを書いていますが、どうすればいいのか、僕もずっと考えています。
そして、「とりあえず考えたから、もういいや」と「終わり」にしてしまいたくなっているのです。


僕にも、何が「正しい」のは、よくわかりません。
『絶歌』という本に書いてあることが本当かどうかも、知りようがない。
もしかしたら、これは「舌禍」にかけて、世の中を挑発しているのではないか、とか勝手に想像してしまっています。


ただ、ひとつだけ決めていることがあります。
これを読むにしても読まないにしても、それは(当たり前のことではありますが)「僕自身の選択」であり、誰かのせいにはしません。


イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告

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