いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「ただ、そばにいてくれること」

『この人たちについての14万字ちょっと』という重松清さんがホスト役の対談本で、こんな話を読みました。
この回の重松さんの対談相手は、伊集院静さん。

重松清:あるエッセイでは「神は信じていない」とお書きになっていますね。


伊集院静そう。神にはすがらないし、いまさら私みたいな奴に神がなにかをしてくれるとも思わない。弟が海で死んだことや前の家内(夏目雅子さん)が死んだこともあって、よけい神に対する考え方が、「そんなものいない」となるんだろうな。
 ただ、いまの家内(篠ひろ子さん)はクリスチャンで、私にも時折、神という存在に対して示唆を与えてくれた。
 震災のあとも「神ってなんだ?」と訊いたら、「神さまはずっと、どんなときもそばにいらっしゃる」と。人間は訪ねて行っても、「ああ、留守か」というときがあるけど、神さまはそれがない、と言うんだよ。
「いつもか?」
「いつもです。お母さんが亡くなったときも、特別なことはしてくださらないかもしれないけれども、神はそばにいてくれました」
 あ、そういうことか、と思った。
 そうであるなら「神はこんなにもむごいことをするのか」という発想はちょっと切り替えよう、となった。震災の三週間後ぐらいかな。


僕はこれを読んで、映画『ベイマックス』のことを思いだしました。
ベイマックスは、原則的には「ケアロボット」であり、主人公・ヒロが「もう大丈夫だよ」と宣言するまで、そばに居続けようとします。
作中で「スーパーロボット」に改造され、空を飛んだり、闘ったりもできるようになるのですが、ベイマックスって、基本的には「傷ついた人のそばに付き添ってあげるロボット」なんですよね。
なんでもヒロの言いなりになるわけじゃなくて、ヒロが求めることでも、ヒロにとってプラスにならないと思えば、その命令に異議を唱えたりもします。
ベイマックスって、キリスト教徒にとっての「神さま」をイメージしているのかな。


昨日の夕方のニュース番組で、小学校二年生のとき、阪神・淡路大震災に遭い、お母さんと当時1歳半の弟を亡くした、という小学校の先生のことが紹介されていました。
先生は、「あの震災」を体験していない教え子たちに、震災の体験を語り続けているそうです。
そのなかで、先生は、こう仰っていました。
「わたしたちは、大事な人がそばにいるのを、当たり前のことだと思いこんでいるけれど、それは、けっして当たり前のことじゃないんですよね。だから、そばにいられる時間を、大切にしてほしい」


「そばにいてくれること」
ただ、それだけのことに感謝する時間が、あっても良いんじゃないかな。
ものすごく簡単なことのようだけど、人間どうしであるかぎり、永遠に一緒にはいられないのだから。


今日は、あれから20年目の、1月17日です。



この人たちについての14万字ちょっと

この人たちについての14万字ちょっと