いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「お受験」と「戒名」

参考リンク:中学受験ってどうなの?という話(いつか朝日が昇るまで)
中学受験ってどうなの?という話 - いつか朝日が昇るまで



先日『怒り新党』のなかで、有吉さんとマツコ・デラックスさんが、「戒名」の話をされていたんですよ。
「○○居士」はいくら、とか「××院」という「院号」だと、50〜100万円くらいが相場、とか。
ふたりとも「自分は、そんな戒名なんて要らないし、そのためにこんなお金を遺族に使ってほしくもない」と仰っていたんですよね。
でも、その話題の最後に、マツコさんがこう言っていたのです。

「ただ、自分のこととなると、みんな『要らない』って言うんだけど、こういうのって、自分の親とかのことじゃない。そうなると、なんというか、払えるお金があるんだったら……って気分になるのもわかるんだよね。自分のことじゃないから、と思うとね。
わたしたちが死ぬときには、その子ども世代の意識も変わっているのかもしれないけど……」


「お受験」にも、同じようなところがあるんじゃないかな、って。
僕自身は、中学校まで公立高校で、高校は寮がある男子校で、けっして「楽しい」とは思えませんでした。
そのおかげで自分の人生が、成功したとも思えない。むしろ、「ちょっと残念」レベルではないかと(ただ、「大失敗」でもないとは、思いたい)。
小学校から、「受験をしなければならず、学費が高い学校」に入れる必要もないような気はするのです。
慶應幼稚舎くらい、将来へのエスカレーターがビカビカに輝いていれば、良いかもしれないけれど。


でもさ、自分の子どものこととなると、「行けるくらいの学力があって、お金もなんとかなるくらいなら、行かせてあげるのが、可能性を伸ばすことにつながるのかな……」とも、悩んでしまうのです。
「自分だったら、行きたいとは思わない」のに、「自分の子どもは、行ったほうが良いんじゃないか?」と。


正直、6歳くらいの子どもの「自分の意思」って、どのくらいアテになるのだろう、という気はします。
周囲が「あの学校はいいよ」と薦めたり、親戚の子が行ってて、良いみたいだよ、なんて言っていれば「同じところに行きたい」と、ほとんどの子どもは言い出すはず。


これを書きながら考えていたのですが、さっきの「戒名」の話にしても、結局のところ、僕が本心から「戒名とか院号とか必要ない!」と考えているのであれば、「でも、親のことだから……」ってブレないのかもしれません。
本当は、「それだけのお金があるんだったら、なんとか院とかつけたほうがいい」っていうのが、僕の本音のような気もしています。
それは、「遺族」に対する周囲の視線、みたいなものも含めて、なのだとしても。
院号」をつけても、少なくともいまの日本では、故人のことを語るときは生前の名前を使っているのに。


「お受験」をして、「評判の良い小学校」に入ったら、幸せになれるのか?
僕は、子どもが望まないようなことを、押しつけてしまっているのではないか?
そもそも、僕自身は、本当に、そういう学校に行ったほうが良い、と思っているのか?
正直「わからない」のです。
でも、人生というのは、ここでセーブしておいて、ビアンカとフローラ、どちらとも結婚してみるわけにもいかない。


ああ、でもこういうのって、「戒名」と同じようなものなんだろうなあ。
人の心のうちを勝手に想像して、「僕は違うんだけど」って言い訳しながら、結局、自分が思うようにやってしまっているのかもしれない。
戒名だって、そうやって、ずっと続いてきた慣習なのかもしれない。


ホリエモンオタキングが、カネに執着するおまえの生き方を変えてやる!』という対談集のなかで、堀江貴文さんと岡田斗司夫さんが、こんな話をされていました。

堀江貴文「不倫はいけない」とか「子どもは親が育てる」などのタブーやルールが生まれたのは、昔、人間の生活が太陽の運行に支配されていて、みんなが一丸となって食糧を生産しないと生きていけなかったからではないでしょうか。その後、工業化社会になっていろいろと便利なものが発明され、人間の暮らしはどんどん楽になっていきました。それなのに、いまだに昔のタブー、ルールに縛られているように思います。


岡田斗司夫技術の進化は1、2年でも起こりますが、社会的な価値観の変化は30年くらいはかかりますね。やはり子どものころに教えられた価値観で育つひとが大勢いますから。いまから10年後、20年後くらいには、堀江さんが言っているようなことは当たり前になるでしょうし、すでにいまの中学生や高校生くらいだとリアルな皮膚感覚になっているかもしれませんね。ただ、社会全体の価値観はそうそう変わりません。大人が子どもに与える教育というのは、本質的に「本来ならばぼくたちはこう生きたかった」という虚像です。「これからの社会はこうなるから、こう生きろ」ではなくて、「いまの社会はこうなってしまったけど、お前たちだけはこう生きてくれ」と言ってしまう。


 例えば、いじめの問題。大人の社会では、いじめや無視なんて当たり前のように行われています。それなのに、子どもにはいじめが存在しないかのように教えて、その結果教育現場には歪みが生まれています。社会の実像ではなく、虚像ばかり教え込もうとしてしまう。子どもからすれば、自分自身の現実の生活と、学校で教えられる嘘がぶつかって、矛盾が大きくなっていく。そうして、さらに意味のないいじめとかがどんどん発生してしまう。


なんのかんの言っても、「教育現場のいま」なんて、大部分の大人にはよくわからないはずです。
たまに授業参観で覗いてみる程度では、それが当然だと思う。
だから、「自分が教育を受けていたときの記憶」に、いまの子どもをあてはめようとしてしまう。


それは、ものすごく愚かなことなのだろうと思うけれど、良い方法が浮かんでこないのも確かなんですよね。


子どもは子どもで、うまくやってくれる、と信じるしかないのか……



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