いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「キーボードを叩くこと」の悦楽

なぜブログを書き続けることができるのか?


たぶん、こういうのって、人それぞれの答えがあるのだろうし、そもそも、胸を張れるほど、書き続けることが偉いことだとも思えない。
もし、こうしている時間をもっと「有効に」使えていれば、英語のみならず、フランス語と中国語くらいまで堪能になっていたんじゃないかと思うし、真面目にゴルフの練習をしていたら、シングルプレイヤーになれていたかもしれない。
まあでも、そういうのは、「いちおう、他者に向かってやってみせる後悔」みたいなもので、結局のところ、僕はこれが好きで、面白いと思っていたのだろう。
「パチンコをやっている時間、勉強したり、アルバイトをしていたら……」と後悔する人は多いけれど、そんなの「勉強やアルバイトよりも、パチンコをやりたかったから、やっていただけ」だ。
人間って、基本的に「やりたいことをやる」ようにしかできていない。


お盆でもあり、自分の昔の持ち物を眺めたりする機会があったのだけれども、僕の場合は、どうも、「パソコンのキーボードを叩く」という行為が好きなのが、こうしてブログを続けている最大の要因なんじゃないか、と思えてきた。
いまの子供たちは、プリントされた写真が見づらいと、そこを指二本で拡大しようとするくらいの「デジタルネイティブ」らしいのだが、僕にとっては、パソコンとの出会いそのものが「人生観を変えた」のだ。
僕が小さかった頃は「テレビ番組は、一度見逃したら、運良く再放送を見つけなければ、二度と観ることはできないもの」だったし、テレビ画面に映るものは、一方的に送られてくるものだった。
はじめて「家庭用コンピュータ」というものに触れて、「A」のキーボードを押すと、画面に「A」が表示されたときには、「なんでこんなことができるんだ!」と、衝撃を受けたものだった。
テレビゲームだって、「レバーを右に倒すと、画面のキャラクターが右に動く」のをはじめて体験したときには、「すごい!」と感激したのだ。


どうも僕は、そのときの「自分が入力した言葉が、画面に表示される感動」を、ずっと引きずっているような気がしてならない。
仕事で長い文章を書いたり、パワーポイントでスライドを作ったりすることもあるのだけれども、僕は、イヤな仕事でも、パソコンのキーボードを叩いていると、なんとなく浮かれてくる自分を感じることがある。
もしこれが手書きだったら、やっちゃいられなかっただろうな、とホッとすることも多い。
キーボードを叩き、それによって文章が画面に表示される、たかがそれだけのことなのだけれども、僕は「そのことが当たり前じゃなかった時代の感激」を、なんとなく引きずって、30年くらいやってきたんじゃないかな、という気がする。


だから、スマートフォンとかで文章を書こうとしても、なかなか「乗れない」のだよなあ。


ブログをずっと書き続けられるかどうかって、「書くことが好き」とか「承認欲求」とか、いろんなことが言われているけれど、僕自身に関しては、「コンピュータの前にいることが好き」「キーボードで入力することに苦痛を感じない」というような、「道具への愛着」が大きいのではないか、と思っている。