いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

16歳の女の子が語った「勉強することの意味」

『○に近い△を生きる』(鎌田實著/ポプラ新書)で、こんな話を読みました。

 16歳のマララさんは、パキスタンの女学生だった。女性が勉強する自由を訴えたために、イスラム原理主義のタリバンに銃撃され、瀕死の状況に陥った。それを乗り越え、自らの誕生日に国連で演説をした。
タリバンは私や私の友人を銃弾で黙らせようとしたが、失敗した。
 テロリストは何も変えられなかった。
 私から弱さと恐怖、絶望が消え、強さと力、勇気が生まれた以外は」
 銃弾は女の子を黙らせることはできなかった。この女の子は銃弾を受けたことによって怖いものがなくなったのだ。かえって勇気が生まれたという。
 なぜ勉強するのかがわかる、マララさんの大事な言葉である。
「私を撃ったタリバンを私は憎まない。もし私が銃を持ち、彼らが目の前に立っても私は撃たない」
 これが勉強することの意味なんだ。首相の安倍さんはやられたらやり返す力を持った普通の国になりたいと考えているようだ。安倍さんの気持ちもわかるが、一歩立ち止まって、マララさんの言葉を勉強してほしい。この国をどうしたらいいのか、この国の憲法をどうしたらいいのか、もっと深い討論ができるのではないかと思う。みんなが勉強することが大事だ。


 このマララさんはノーベル平和賞の候補にもなりました。
 僕も彼女の言葉に感銘を受けた人間のひとりなのですが、彼女が語る「勉強することの意味」というのは、「やり返さない勇気」であり、「悲劇の繰り返しをやめるための理性」でもあるんですよね。
 先日観た映画『42』で、ブルックリン・ドジャースのGMも、メジャーリーグ初の黒人選手であるジャッキー・ロビンソンに「やり返さない勇気を持った選手になれ」と言っていました。
 「真の勇気」とか「理性」ってやつは、たぶん、「自分に起きた物事を、自分の感情だけで判断・処理しない」ということ、そして「集団や人間全体にとってプラスになることを考える」ことなのでしょう。

 
 率直に言うと、僕はこれを読んで、マララさんの「勇気」に感動したのと同時に「自分自身や、大切な人が傷つけられた場合に、『やり返さない』ことができるだろうか?」と考えこんでしまったのです。
 「倍返しだ!」があんなに流行ったように、人間の本能って、「やり返すほうが快感」にできているんじゃないかと思うんですよ。
 そういう感情を「理性の力で抑え込む」というのは、とても難しく、また、つらいことではないでしょうか。
 僕はたぶん、「やり返したい」人間です。


 勉強することは、集団の存続や、人類全体にとっては、すごく大事なことです。
 しかしながら、その一方で、「やり返さないと、気が済まない」という感情と、「勉強しているがゆえに、やり返すしても不毛な争いが続くだけだということがわかる」という理性のせめぎ合いに耐えなければならないとするならば、その個人にとって「勉強すること」は幸せなのかどうか?
 いや、そもそも、「幸せ」とは何なのか?


 「勉強する」とか「理性的にふるまう」っていうのは、そんなに簡単なことじゃないよね。
 知れば知るほど、考えれば考えるほど、感じるようになる「痛み」だってあるのだから。


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