いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「サードブロガー」への「違和感」の正体について

参考リンク:“サードブロガー”再考 - あざなえるなわのごとし


いまさらながら、という話なのですが、僕なりにキチンと整理しておかないと気が済まなくなってしまったので、書き残しておくことにします。
ブログ論とかに興味がない人は、長くて何が書いてあるのかわからない記事だと思いますのでスルー推奨。



はてなブログを中心として盛り上がっていた「サードブロガー運動」に対して、僕は冷ややかに見ていました。

Twitterでは、こんなことも言っていましたし。


長年イマイチブロガーをやり続けている僕としては、なんとかして、いまの固定化されたブログ状況を打破したい!という気持ちはわかるんだけど……わかるだけに「でも、あなたたちがやっていることに、全然新鮮さを感じない」と思ったのも事実です。


「俺たちは『新しいブロガー』なんだ!」
 その気概や善し。
 時代は、そういう突き抜けたい人たちによって、つくられる。
 でも、今回の「サードブロガー」たちは「自分たちは今までと違う!新しい!」と声高に叫ぶだけで、やっていることは今までと同じだと、僕には感じられたのです。
 「テキストサイト全盛期」に、僕が指をくわえてみていた「大手テキストサイトたちが、馴れ合いでお客さんを融通しあっている」のと同じベクトルにみえた。その縮小再生産。


 それが「悪いこと」だとは思いません。
 でもね、やっぱり「自分たちは新しい集団だ」と主張したいのであれば、そこには「これまでとは違う何か」がなければならないと思うのです。
 日本文学の「新感覚派」とか、絵画の「印象派」とかは、その時代において「今までとは違うこと」をしようとしていて、だからこそ、新しい名前がついた。
 もちろん、それぞれの表現には「好き嫌い」はあるのでしょうけど。


 『ジヴェルニーの食卓』という本のなかで、原田マハさんは「印象派」について、こう語っておられます。

 しかし、官展に反旗を掲げた男気ある「狂った」芸術家は、ドガやメアリーが最初ではなかった。着衣の男性とヌードの女性のピクニック風景を描いた、エドゥアール・マネの『草上の昼食』が、官展に落選した作品も市民は公平に見る権利があるとして、「落選展」に展示されたのをきっかけに、「何かが違う」と感じ始めていた一部の画家たちは、作品を独自に発表する機会を設けるようになった。


 計算され尽くした構図や、歴史的風景、神話、肖像などのありふれたモチーフ、滑らかな仕上げの絵肌(マチエール)を捨てて、見たまま、感じたままを、瞬間的なタッチで描く。「印象のままに描いている」、つまり緻密な構成も技術の熟練もなしに勝手気ままに描く稚拙な絵、と批評家に嘲笑を浴びせられた彼らの作品は、やがてその揶揄を冠して「印象派」と呼ばれるようになる。


 たぶん、いま、ブログを読んだり書いたりしている人たちにも「何かが違う」という感触があるのではないかと思うんですよ。
 ブログ=人を集めてアフィリエイト収入、みたいなことをやりたいんじゃない、っていう。
 でも、実際にいま、「ブログをやっていくためのノウハウ」みたいなのは「いかにしてお金を稼ぐか」寄りになってしまっている。
「金はそんなに稼げなくていいから、読んでほしい。炎上とかじゃなくて、普通に読んでほしい」
 そういう人たちはたくさんいるはずなのに、居場所がない。
「サードブロガー」たちが目指しているものは、その居場所をつくるものではないかと、僕は最初思っていました。
 でも、彼らは結局、これまでのアルファブロガーと同じ手法で、自分の居場所をつくろうとしているように僕には見えてきたのです。
 電車内のルールを変えて、みんなが座りやすくするのではなく、「自分と、その仲間が座るための場所があれば、ルールは同じでいい」。


 そんな大仰な話じゃないんだよ、と言われるかもしれません。
 でもさ、やっていることに何の新しさもなく、新しいものをつくろうという意思も感じられないのに「自分たちは新しい潮流なのだ」という自負心だけが露出してしまっているように、僕には見えたのです。
 僕には「ビジュアル系と言われたら激怒するラルクアンシエル」みたいにしか、感じられなかったのですよ。
(ファンの人ごめんなさい。ちなみに初稿ではラルクアンシエルをLUNA SEAと勘違いしておりました。重ね重ね申し訳ありません。LUNA SEAは「ビジュアル系呼ばわり」されても怒りません! XのYOSHIKIさんはカレーが辛いと帰ってしまいます!(伝説))


 ただ、このブログ『いつか電池がきれるまで』をはじめてみてわかったのですが、ブログへの新規参入というのは、どんどん難しくなってきているんですよね。
 僕が以前からやっているブログは、更新してもしなくても、来訪者数にはそれほど大きな変動はありません。
 十年くらいのエントリの積み重ねがあって、検索で来る人もいるし、「お気に入り」にしてくれている人もいる。
 ところが、このブログのほうは「更新すれば1000人、多いときには数千人」なのだけれど、一日更新しなければ、その日は100~200人くらいしか来ない」こともあります(数か月前のほとんど更新していない時期は、1日10人以下、ということもありました)。
 既存の中堅以上のブログに比べて、新興ブログは「自転車操業」を余儀なくされます。
 SNSなどにより、「ブログ単位」ではなく、「エントリ単位」で読まれる割合が高くなると、「昨日1万、今日100人」なんていうことも起こっているのでしょう。
 特定のエントリに一斉に人が集まっても、「そのブログのファン」になってくれる人は、なかなか増えない。
 結局、新興ブログが読まれ続けるためには「毎日どんどん燃料を投下しつづけるしかない」のです。
 既存の勢力に対して「なんかズルい」と言いたくなる気持ちもわかるよ。


 そもそも「アルファにならなくても、自分の身の回りのことを書いていればいい、日記でいい」というのは、ネットでの個人の活動のもっとも初期からあったものです。
「HTMLがわからない人でも、ネットに書けるようになった時代」の幕開けは『さるさる日記』などの「個人日記サイト」だったのですから。
 そのなかから、「ネットを媒介にして、社会を語り、また、社会に影響を与えうるようなアルファブロガー」という人たちが出てきた。
 ただし、彼らの多くは「ネット出身」ではなくて、「既存の学者や著述業者、有名人が、うまくネットを媒介にした」のです。


 これまでのネットの既成勢力を打ち破りたい、という心意気は買いたい。
 でも、それならば「俺たちは新しい!」というお題目を連呼するよりも、「新しいもの」や「面白いもの」を実際に書く、あるいは、書いてみようとするべきではなかろうか。


 「ブログ論」の魅力に捉えられてやめられなくなった人々(僕もですが)をみると、薬害エイズ問題で「社会運動の威力」に目覚めた学生たちのことを思いだします。
 彼らのなかには、「運動の面白さ」にとらわれてしまって、日常を失ってしまった人もいました。
薬害エイズ問題」の旗振り役であった小林よしのりさんが「そろそろ日常に帰ったほうがいい」と彼らを説得する言葉を『ゴーマニズム宣言』に書いていたのを思いだします。


 僕がイメージしている「本当のサードブロガー」って、いまは諸事情でブログを休止してしまったコンビニ店長のような「既成の勢力と強固に結びついたり、特定の誰かとつるんでいるわけでもないのに、それを『面白い!』と思う人たちが三々五々集まってきて、いつのまにか多くの人に読まれる人」なんですよ。
 ネット上のキュレーターと呼ばれる人たちの力は大きいけれども、いまは「本当に面白いものは、それなりに長く続けていて、地道に個人レベルでtwitterとかセルフブックマークとかで宣伝していれば、いつか発掘してもらえる時代」ではないかと思いますし、実は「新しいブロガーの時代は、もうすでにはじまっている」とも言えるのかもしれません。


 そういう「新しいブロガー」の姿って、ある意味『さるさる日記』の時代に「ネットで自分の日常をボトルメールのように書き始めたプロトブロガー」とそっくりでもあるわけで、結局のところ、「歴史は繰り返すのかな」なんて、考えてもみるのです。

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