いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

ゲーム機を「捨てられない」人生

katadukecoffee.hatenablog.com


僕自身は、「捨てなくても済むものは、なるべく捨てたくない」人間なんですよね。
以前は、引っ越しのたびに激烈に重い本の段ボール箱の山で、家人や引っ越し業者を辟易させていたものです。


「それ、これから読むの?」
「いや、またいつか必要になるかもしれないし……」


最近は、年のせいか物の多い生活に、少し疲れてきたところもあるのです。
でも、そんな僕には、どうしても捨てられないものがあります。


それは、「マイコン・パソコン」「ゲーム機」「ゲームソフト」。
実家には、僕が最初に触れたマイコン・シャープX1(テープ版)とX1-G(5インチフロッピー)がまだ存在しており、いま住んでいる部屋には、あの伝説の名機、X68000がしまわれているのです。
でも、10年くらい電源を入れておらず、「久々に電源を入れたら爆発した」なんていうレポートを読んだこともあるので、もう怖くて電源を入れられません。
フロッピーディスクも、まだデータが読み込めるのかどうか……


にもかかわらず、「捨てられない」んですよ。


ゲーム機も、ファミコンからセガマーク3、ゲームボーイ(初代)、メガドライブスーパーファミコン、プレステ、サターン、PCエンジンDUO……と、とにかくたくさんのハードがあるのですが、「こまめに取り出して遊んでいるわけでもないのに、捨てられない」のです。
ゲームソフトも、まだ封をあけていないものも含めて、本当にたくさんあるんですよね。
「いつか、仕事をやめてリタイアしたら、悠々自適の生活とともに『アドバンスド大戦略』や『スカイリム』をクリアしてやろう」なんて思っているのですが、もうすでに、3回くらい生まれ変わってずっとゲームをやり続けられるくらいの量があります。


ゲーム機って、僕にとっては、なんとなく、「それで遊んでいた時代の象徴」みたいな気がして、なかなか捨てられない。
ずっと手にコントローラーを持ち、前に座って、時間を過ごしてきたものなので。
このリンク先の方の「『ピクミン』の思い出」というのも、なんだかとても微笑ましいというか、ゲームとの幸福な関係だよなあ、と読んでいて嬉しくなりました。
僕にとってのテレビゲームは、たぶん、人生でいちばん長いつきあいの友達、なんですよ。
ゲームソフトも「値段の割には、かさばらないし、捨ててしまうのはもったいないよ」と妻に言い訳をするのですが、「総量的に、もう無理!」と一喝されてしまいます。
「そもそも、全然やってないでしょ」と。


この『Wiiを片付ける」という話を読んで、「ゲーム機を片づけるのって、自分の人生の一時期を整理するようなものだな」と感じました。
そして、ゲーム機を片づけられない僕というのは、人生にうまく「区切り」みたいなものをつけられず、昔のことをいつまでもウダウダと思い迷っているのかな、と。


だからといって、僕にとって愛着のあるマイコンやゲーム機たちを、すぐに手放す勇気はなかなか持てないのです。
「まだ遊べる」し、「買い直すとけっこう高い」し、「できれば、ずっと自分が使っていたものを取っておきたい」から。


まあ、たぶん、ずっと捨てられないんですよ。
そして、ほとんどのゲームは、ずっと遊ばれることもない。
それがわかっていても捨てられないというのは、自分でもどうしようもないなあ、と思うのだけれど。

アクセスカウンター