いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

それは、芸人側の「甘え」ではないだろうか?

参考リンク:いじめ問題によせて ~「爆笑問題といじめ問題」全文公開~『藝人春秋』(水道橋博士 著)

上の文章は、『藝人春秋』という電子書籍のなかから、水道橋博士が無料で公開されているものです。
「芸人として生きる」ことを選んだ人たちは、「いじめ」をどう考えているのか?


かなり読みごたえのある文章なのですが、これを読んでいて、僕はひとつ、引っかかるところがあったのです。
2006年の『週刊ポスト』での連載コラムでのビートたけしさんの発言を水道橋博士は引用されています。


(以下引用部)

 いじめ発言でもっと腹立つのが、お笑い芸人のギャグが子供のいじめの原因を作ってると発言した某番組司会者なんでさ。

 最近のお笑い芸人の笑いはいじめギャグばかりで、子供が真似するからよくないっていうけど、お笑いは昔から予定調和のいじめギャグで笑わせてきたんでさ。

 そういう言い方なら、オイラなんか全部いじめギャグで食ってきたんでね。

 熱湯風呂なんてのは、全部ヤラセの演出なんで、本当に何十度もある熱湯だったら、みんな大ヤケドしてるぜってね。

 ぬるいお湯をいかに熱く見せるかという、そのリアクションの芸がお笑いの芸なんだから。熱さを芸で見せてるってのがわかってないんだよな。

 昔の親は利口だから、芸人の芸がわかってたんでさ。

 あれは芸人がわざと痛そうにやってるお芝居なんだから、芸人のやってるバカなことを真似するんじゃないよって子供に説明したはずが、今は親までが本気でやってると勘違いしてるから本当にバカなんだよ。

 オイラたちのギャグをウソでやってるというバランスのわかるヤツもいるけど、今の子供たちはバーチャルゲームで育ってきてるから、バーチャルと本物の違いがわからないんでさ。本音とウソのバランス感覚がなくなってるんだろうな。

 オモチャのピストルで遊んだ経験のある子は、ドンパチやる拳銃映画を観ても映画の殺し合いはリアル感がないし、本物だと思わないけど、ゲームで育った子は本物の区別がつかないんでさ。

(引用終わり)



 あれは「芸としてのフィクションのいじめだから良い」「むしろ、ウソだとわからないほうが不粋なのだ」
 
 うーむ、ここで採り上げられている「熱湯風呂」や、プロレスなんかもそうだと思うんだけど、ああいうのは「本当にやってたら死ぬに決まっている」と推測する一方で、「でも、もしかしたら『本物』なのかも……」という一分の「期待感」みたいなものがないと、やっぱり面白くないような気がするんですよ。
 プロレスも「あれはショーです」って公言する人が出てきてから、面白くなくなってしまったような気がするし。
 みんな「やっぱりそうなんだろうな」と思っているようなことでも、それが「明言」されてしまうと、興醒めしてしまう、というところはあるんじゃないかな。
 たけしさんが言っているみたいに「あれは熱くないお湯を熱そうにみせるリアクション芸なんだ」とわかって「芸」を楽しんでいる人って、どのくらいいるのだろうか?
 あの番組やプロレスの最初に「これはフィクションですので、熱くもないし、勝敗は最初から決まっています」なんてテロップが出ても、みんな楽しめるだろうか?
 まあ、それこそ「お約束」なんだから、あえて言うのは野暮だ、ということなんだろうけれど。
 それに、プロレスは、筋書きがあっても、命がけで見せているショーであるのは事実だしね。


 僕はこういうのって、芸人側の「甘え」なんじゃないかと思うんですよ。
 そんなに「芸のことをわかっている観客」なんて、いないんじゃないかな。
 僕たちは学校で「プロレスごっこ」をやってきたし、怪我をするヤツもいた。
 親は「プロレスなんてショーだ」と言っていたけれど、僕はいつも8時45分に猪木の延髄切りが決まったり、猪木がブロディと片手で時間切れ引き分けに持ち込んだりしたのをみても「そんなことあるわけないだろ!」というツッコミと「やっぱり猪木はすごいな!」という賞賛が、心のなかで闘っていた。
 たけしさんは賢い人だから、たぶんわかっていて、こういう発言をしているのだろうけど、多くの人は「いじめ的な内容をリアクション芸として楽しんでいる」わけではなくて、「いじめが好き」なのだ。いや、「他人がいじめられているのを見るのが好き」なのだ。
 それが、テレビの向こうのような「安全地帯」での出来事ならなおさら。


 僕だってネットの「毒舌サイト」みたいなので、他のサイトが斬られていると快哉を叫んでいたのだけれど、いざ自分が槍玉に挙げられてみると、ああ、こんなに不快で不安なものなんだなあ、と思った経験があるのです。


 以前、あるゲームで遊んでいて、妻にこんなことを指摘されました。
「あなたは、普段ニュースを観ながらあれこれ言っているけれど、そんなゲームをやっているのはどうかと思う」
 僕は昔から「暴力」とか「ヤクザ」とかを賞賛するような作品が大嫌い、だったはずなんだけれど、そのゲーム『龍が如く』は面白くて、鉄パイプや自転車を振り回してチンピラをやっつけるのが、けっこう爽快だったんですよね。
 
 暴力もヤクザも嫌い、でも、『龍が如く』は面白い。
 妻の指摘に、僕は絶句しました(結局クリアするまで遊んだんだけどね)。
 
 いじめは嫌い、でも、「いじめ的なお笑い」は嫌いじゃない。
 矛盾しています。ダブルスタンダードです。

 実際、いじめっていうのは、少なくとも第二次世界大戦中の疎開先にも存在していたのだから、そう簡単に無くなるようなものじゃないと思うんですよ。
 
 人間は、自分が被害者じゃないかぎり、「いじめ」が好きなのだ。
 少なくとも、「外野からいじめを語る人たち」には、いま、いじめられている人間のことを想像するのは難しいのではないかと思う。


 いじめを語る人って、いまは功成り名を遂げた「昔いじめられていた」有名人や芸能人、一流大学を出た教育評論家や政治家ばっかりじゃないですか。
 僕は彼らがいじめを語るのを聞くたびに、「ああ、これは生き残った人たちが語る『戦争体験』だな」と感じます。
 戦争で本当につらい目にあった人たちは、ほとんどが死んでしまって、語ることはできないのです。
 なんのかんの言っても、部活のシゴキと一緒で、生き残ることができた人たちのなかには、それを「美化」してしまう人もいます。
 原爆の悲劇について考えるのであれば、『碑』を読むべきだと思うんですよ。
 あれは、「死んでしまった人たちが、死んでいくまでの物語」だから。


 僕は、『お笑い』も『龍が如く』も「悪」だとは思いません。
 でも、そんなにクリーンなものじゃない、とは感じてしますし、だからこそ「面白い」のでしょう。
 結局のところ、「よくわかんないよね」「しょうがないよね」という話で終わってしまいそうなのですけど、人間がそういうものであるからこそ、「いじめは悪いことだ」って言い続けるしかないのかもしれないな、と僕は思っています。

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