いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

『はてな』と「ネガコメ」と「ジャーナリズム」

『キャスターという仕事』(国谷裕子著・岩波新書)に、こんな話が書かれていました。

 1988年、アメリカ大統領選を取材中、私はホワイトハウスでいつも大統領に手厳しい質問をするサム・ドナルドソン記者に、「なぜ、あなたは大統領に厳しい質問ばかりするのか」と聞いたことがある。「国谷さん、小さな田舎町でアップルパイコンテストがあり、そのコンテストの優勝者が、隣に住む素敵なおばあちゃんだったとしましょう。僕はそのおばあちゃんにも、優勝おめでとう、でもおばあちゃん、そのアップルパイに添加物は使わなかったかい? と聞きますよ」。ドナルドソン記者がそう答えてくれたのが、とても印象に残っている。どんな場でも、相手がどんな人であっても、聞くべきことをきちんと聞くというインタビューの基本を教えてもらったと思った。しかし、日本だったら、果たして、こういうことを聞くだろうか。
 国内外で時代のうねりが大きくなり、生き方も価値観も多様になるなか、報道番組におけるインタビューの役割とは何か。情報を直接発信する手軽な手段を誰もが手に入れ、ややもすればジャーナリズムというものを「余計なフィルター」とみなそうとする動きさえ出てきている。しかし、アップルパイを作ったおばあちゃんに、「添加物を使っていないか?」とあえて尋ねる、まさにジャーナリズムとしてのインタビュー機能が失われてもよいのだろうか。権力を持ち多くの人々の生活に影響を及ぼすような決断をする人物を、多角的にチェックする必要性はむしろ高まっている。


 これを読んでいて、僕は『はてな』の「ブックマークコメント」を思い出しました。
 コメントされる側からすれば、嬉しい、ありがたいこともあれば、鬱陶しい、なんでそんな揚げ足をとったり、人格攻撃をしてくるんだ?と感じることもある「第三者からのコメント」なのですが、たしかにブックマークコメントには、「添加物を使っていないか?」と問いかけてくるような「ジャーナリズム的なもの」が含まれているんですよね。
「美談」だからといって、絶賛コメントばかりであることに少しでも疑問を呈すると「そんな失礼なことを言うな」と口を塞がれる。
 あるいは、マスメディアが権力者に厳しい質問で切り込んでも「メディアは傲慢だ」と批判される。
 もちろん、個人にもメディアにも「他者に言及するときに守るべき最低限の礼儀とルール」は存在するはずです。
 今のインターネットの「発信する側」って、鋭く切り込んだり、疑問を呈するようなコメントまで「ネガコメ」としてゴミ箱に入れてしまう人が多いのです。
(思い返してみると、僕自身にもそういう傾向はあります)
 その一方で、コメントする側には、単なる嫌がらせや人格批判を「表現の自由」として、正当性をアピールする、という傾向もあります。
 もちろん、こういうのって、綺麗にどちらかに分類されうるものではないし、サム・ドナルドソン記者は、「顔も名前も所属も明らかにして、『そのアップルパイに添加物は使わなかったかい?』と訊ねている」という大きな違いはあるのですけど。


ネガコメ」というのは「ネガティブなコメント」の略なのですが、あらためて考えてみると、その定義はかなり曖昧なものです。
 書かれていることに批判的だったり、疑問を呈するようなものはすべて「ネガコメ」なのか、単なる揚げ足取りや人格攻撃のような「嫌がらせ」に限定されているのか。
 僕自身もあまり深く考えてこなかったのだけれど、「ネガコメ」という言葉は、する側、される側にとって、その都度、都合の良いほうの解釈で使われているように感じます。
 

 『はてな』って、かなり「めんどくさい場所」ではあるのですが、今のインターネットの世界のなかでは、まだ「ジャーナリズム的なチェック機能」が生き残っている場所だと思うんですよ。
 そのエントリが抱えている問題点をブックマークコメントで知ることも少なからずありますし。
 書いている側としては、コメントと向き合うのは、つらいところも多いのだけれど、勉強にはなるんですよね。
 ノイズがかなり多いし、相手はドナルドソン記者のように「自身もリスクを負って疑問を呈している」わけでもないので、全部真に受けていたら、身が持たないのも事実なのですが。


インタビュー術! (講談社現代新書)

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