いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「他人に共感できない人々」がインターネットを回す


gigazine.net


このGIGAZINEの記事、よくこれだけ調べてまとめたなあ、と思いながら読みました。
村田マリさんがやったこと、やろうとしていたことには、さまざなま意見もあるでしょう。
僕はこんなふうに、「読んだ人が健康を害するかもしれない、いいかげんな情報」を垂れ流していたことに憤りを感じています。
南場さんは、夫の闘病中に「ネットにはあまりにもバイアスがかかった『健康情報』が多すぎる」と感じたと仰っていたのに、なぜ、こんなことになってしまったのか。


この記事をみながら、僕は最近読んだ本のことを思い出していました。
それはこの『サイコパス』という新書です。

fujipon.hatenadiary.com


誤解を招かないように最初に断っておきますが、『サイコパス』って、快楽殺人犯とか、他人の心を操って思うがままに動かしてしまう人、っていうイメージがありますよね。
サイコパス』=「頭が良くて怖い犯罪者、あるいはその予備軍」みたいな。
でも、この新書の著者である脳科学者の中野信子さんは、『サイコパス』=犯罪者ではない、と仰っています。

 統合失調症などの精神疾患と何が違うのか、わからない方もいるのではないでしょか。あるいはトマス・ハリスの小説『羊たちの沈黙』の登場人物ハンニバル・レクター博士のような「高い知能を持ちながら、冷酷な猟奇殺人を次々と犯す人物」を漠然と思い浮かべる人もいるかもしれません。もしくは、ウソばかりついている人物のことを「サイコパス」と揶揄する例もあるでしょう。
 ところが近年、脳科学の劇的な進歩により、サイコパスの正体が徐々にわかってきました。脳内の器質のうち、他者に対する共感性や「痛み」を認識する部分の働きが、一般人とサイコパスとされる人々では大きく違うことが明らかになってきました。
 また、サイコパスは必ずしも冷酷で残虐な殺人犯ばかりではないことも明らかになっています。大企業のCEOや弁護士、外科医といった、大胆な決断をしなければならない業種の人々にサイコパスが多いという研究結果もあります。
 疫学的調査も進んでいます。著書『診断名サイコパス』で有名なカナダの犯罪心理学者ロバート・ヘアによれば、男性では全人口の0.75%がサイコパスだとされています。また、ハーバード・メディカル・スクールの精神医学部で心理学インストラクターを長年務めた心理学者マーサ・スタウトによれば、サイコパスはアメリカの全人口の4%にものぼるといいます。もっとも、この数字の違いはサイコパスの診断基準にもよります。また、個人主義が発達している欧米には多いけれども、集団主義的な社会である東アジア圏では相対的に少ないという指摘や、男性より女性のほうが少ないという研究もあります。
 また、サイコパスとはシロかクロかというようなものではなく、人類の中にグレーゾーンのような広がりをもって分布していることもわかっています。つまり、症状にも程度があるということです。

 いわゆる「頭の良さ」に関してはどうでしょうか。
 サイコパスを題材にしたフィクションの影響もあって、サイコパスは「IQが高い」とか「天才」とかいうイメージを持っている人もいるのではないかと思います。
 しかし、サイコパスと一般人のIQの平均は、それほど変わりません。統計的に有意な差が認められないのです。社会性を検査する尺度に注目してカテゴライズすると、むしろサイコパスのIQはやや低めに出ます。サイコパスが総じて優れた知能を持つわけではなく、一般人と同じように、賢い人もいれば頭が悪い人もいる、と考えるとよいでしょう。
 IQが高いと勘違いされがちなのは、社会通念上「普通の人はこういうことをしない」とされている倫理的なハードルを、サイコパスは平気で乗り越えてしまう、というより、ハードルなどもとから存在しないかのように振る舞うからです。
 普通の人は「自分も他人も、普通はルールを守るだろう」という性善説を信じて行動しています。「ウソをついてはいけない」とか、科学者であれば「科学的なプロセスを踏んだ結果しか許されない」といたルールです。
 しかし、そうしたルールを平気で無視し、しかも一抹の罪悪感も抱かず平然としていわれる人間に対しては、ウソや不正を見抜くことはなかなか難しい。それゆえ、「サイコパスは頭がいい」と、一般の人々は錯覚してしまうのです。これは、常人と異なるふるまいをする人に特殊な能力を見出したがるという、認知バイアスのひとつといえます。


 このGIGAZINEの記事から僕が想像する「村田マリ」さんは、ものすごく有能で決断力があるけれど、インターネットの向こう側にいるユーザーに対する想像力が著しく欠けている人、なのです。
 ものすごく頭が良いから、ズルいことを割り切ってやっている、というよりは、「他者に対する共感性や痛みを認識する能力が低い」ために、罪悪感という概念が欠けて、大胆というか無謀な行動をとってしまっている。
 インターネットで効率的に稼ぐ、経営に対して、数字で「結果」を出す、という目的を達成するために、倫理的なハードルを軽々と乗り越えてしまう。


 ただ、誤解しないでいただきたいのは、実際に犯罪をやってしまう人は論外ですが、社会において、「サイコパス=他者への共感能力が低い人」というのは、必ずしも害になるとは限らない、ということなんですよね。
 実例として、中野さんは、織田信長スティーブ・ジョブズなどを挙げておられます。
 そこまでの「偉人」じゃなくても、「大企業のCEOや弁護士、外科医といった、大胆な決断をしなければならない業種の人々にサイコパスが多いという研究結果もある」そうです。
 僕も正直なところ、10時間を超えるような手術で、ずっと冷静なメスさばきをみせる外科医をみていると「同じ人間とは思えん」と圧倒されてしまいます。ほんのちょっと手が滑って、大きな血管を1本破ってしまったら終わり、という状況で、人の命を預かる最前線に長時間立ち続けるなんていうのは、「人間業ではない」のです。
 もちろん、彼らは過酷なトレーニングを経て術場に立っているのです。
 だとしても、やっぱり、「できない人にはできない」仕事なんじゃないかと思います。
 救急医とかも、そうだよね。


 起業して、会社を急成長させる、なんていうのも、「普通の人が、普通にできることではない」のです。
「常識」に縛られない、他者の痛みに引きずられないというのは、新しいことをやる人にとっては、少なくともその発展の時期においては「強み」になることが多いのです。

fujipon.hatenablog.com


この上の記事の僕のように、広告張るたびに、「この広告が原因で、不幸になる人がいたら夢見が悪いな……」なんてウジウジしていては、会社は停滞していくしかない。


「改革には痛みが必要なのです!」って言うけれど、100%その痛みに「共感」してしまうような人には、改革を断行するのは難しい。
実際にそういうケースを目の当たりにしたことはないのですが、「外科医は身内の手術はしない」と言われているのも、たぶん、あまりに近過ぎる関係の人だと、術者も冷静になりにくいというか、「痛み」を感じすぎてしまうのかな、と想像しています。


今回、DeNAの『WELQ』がきっかけで「キュレーションサービス」の問題点が噴出しているわけですが、これはDeNAだけに存在している「悪」ではないのです。
今の世の中では、「結果を出せる、利益をあげられる人」が「有能」であり、「他人に共感する能力」の優先度は、ものすごく低くなっています。むしろ、「すぐに成果をあげるためには、邪魔なスキル」かもしれません。
インターネット社会では、対人コミュニケーションの必要性が以前より薄れていることもあって、顧客の前で「この人は何かおかしい」と思われる機会も極力減らすことができる。
そもそも、「サイコパス」の中には、「他人に良い自分を見せることがものすごく上手い人」もいます。
もちろん、その逆に、初対面で「ぶっ壊れているんじゃないか」と後ずさりされる人もいるようですけど。


アメリカのブッシュ政権を支え、イラク戦争をはじめた人たちのことを考えると、彼らは「自分とその仲間たちが利益を得ることに最適化されている人々」でした。
そのことについて、彼らは極めて有能だったのだけれど、戦争や無保険にともなう多くの人々の「痛み」を無視していたようにみえました。
彼らを「有能なサイコパス」と考えると、たぶん、「他者の痛みを無視した」わけではなくて、「他者にそういう感情があることを想像できない人たちだった」ような気がします。
そうなると、それが彼ら自身の「責任」なのかどうか、という問いも生まれてくるわけですが。
現実的に、そういう人たちが「有能な人」「改革者」として、国民から「支持」され、国を動かしているのです。


僕は南場智子さんの著書も読みましたし、善良な人だと思っています。いや、そう思いたい。
しかしながら、南場さんの「善良なところ」「他者への想像力」は、自分の身内に限定されていたのかもしれません。
そういう人って、いるんですよ実際に。
マザー・テレサに対する一部の人からの悪評とその内容を知ると、人が持っている愛情の量はみんな一定で、あとはそれが自分自身に向くか、他者に狭く深く、あるいは広く浅く向くかだけの違いなのではないか、とか考えてしまうところもあるのです。


北斗の拳』のジャギ様じゃありませんが、
「いまは悪魔が微笑む時代なんだよ!」
とか、つい考えてしまうのです。
実際は、「共感できない人々」の大部分は「空気が読めないヤツ」として「ふつうの人」の集団からスポイルされ、「共感しないけれど、共感しているフリができる、ごくひとにぎりのサイコパス的な人物」が、その「ふつうの人」たちを動かす、という感じなのかもしれません。


ちなみに、『サイコパス』の著者は「サイコパスに向いている商売」の一例として、「炎上ブロガー」を挙げています。

 カナダのマニトバ大学の研究チームは1215名を対象とした調査から、サイコパスはネット上で「荒らし」行為をよくする傾向があることを明らかにしました。
 また、ベルギーのアントワープ大学の研究者グループが14歳から18歳の青少年324人を対象に調査した結果、サイコパスフェイスブック上で他者を攻撃したり、ひどい噂を流したり、なりすましをしたり、恥ずかしい写真を載せたり、仲間はずれにする傾向があることがわかっています。
 サイコパスには、他人に批判されても痛みを感じないという強みがあります。
 したがって、問題発言やわざと挑発的な言動をしてよく炎上し、しかしまったく懲りずに活動を続け、固定ファンを獲得しているブロガーにも、サイコパスが紛れ込んでいる確率は高いと考えられます。彼らは人々を煽って怒った様子を楽しみ、悪目立ちすることで、快感を得ていると思われます。賛否を問わず大きく話題になってクリック数が増えさえすれば収入に直結しますし、いくら叩かれたところで捕まったり殺されたりするような危険はまずありませんから、刺激に満ちた生活を求めるサイコパスにとっては、うってつけの商売と言えます。


 もともと「他者からの批判に痛みを感じない人々」を、「炎上商法しやがって!」と、どんなにバッシングしても、暖簾に腕押し。むしろ、その状況に快感を覚えてさえいる。
 その一方で、「ふつうの人」は、厳しいネットの人々からの批判に耐えられなくなり、戦場から離脱していきます。
 かくして、ネットという土俵には「炎上上等勢」だけが残っていくのです。


 ここまで書いてきて、僕は鏡を見なければなりません。
 こうしてネット上でなんとか生き延びているということは、僕もその「サイコパス軍団」の一員なのではないか、と考え込まずにはいられないのです。
 それはたぶん、正しい。
 昔から、自分は面白くて笑っているのか、「笑うべき場面」だから笑っているのか、自分でもよくわからなかったし。
 ただ、それは、みんなそういうものではないか、とも思っていて……
 しかし、世の中は「全くサイコパス的な要素がない人」というのが、存在するのだろうか?


 現実的には「サイコパスであること」の善悪を問うことに、もう意味はなくて、その行為・行動が他者に大きな損害をもたらしていないか、で判断するしかないのでしょう。
 「良いことをしたサイコパス」は、「偉人」「英雄」でしかない。


 DeNAがやっていたことは、「いま、世の中で起こっていること」の氷山の一角でしかありません。
 なんらかのルールをつくることが、「ふつうの人」が巻き込まれないために必要なのですが、「ふつうの人」がどこにいるのか?と問われると、多かれ少なかれ、みんな踊っているとも言える。
 だからといって、無法地帯には絶対にしてはいけないとは思うけれど。


 正直、WELQみたいなのをつくって「成果」をあげようとしたり、快楽殺人をやったりするよりは、個人で「炎上商法」とかやっていてもらったほうが、よっぽどマシなんじゃないか、とも考えてしまうのです。
 あるいは、ベーシックインカム(生活ができるくらいのお金の公的贈与)の代わりに、ネットに繋がないようにしてもらうとか。

 多くの人が「成長」とか「ドラマチックな起業物語」を愛するかぎり、同じようなことは、また起こるはずです。
 というか、今まさに、みんなが慌てて「同じようなこと」の痕跡を消しまくっている最中なんですよね。


平気でうそをつく人たち:虚偽と邪悪の心理学

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