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いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

永谷園の「お茶づけ」について、僕が40年近く誤解していたこと

永谷園の「お茶づけ」には、幼少時からずっとお世話になってきました。
野菜も肉も魚も苦手だった僕にとっては、数少ない「安心して食べられるもの」でもあったんですよね。
当時は「焼鳥には悪い鳥がなるのだ」と信じていましたし、口をゆがめて断末魔の叫びをあげている焼魚をみると、ごめんなさい!とか感じてしまう子どもだったのだよなあ。
なんなんだ、「悪い鳥」って。
今となっては、「食べてしまうのはいささか申し訳ないが、こちらも食べないと生きられないのでスマヌ」というくらいというか、むしろ、昔食べられなかった分を取り返しているのではないか、というくらいの勢い、なのですが。


脱線してしまいましたが、「永谷園のお茶づけ」の話に戻ります。
僕は幼稚園くらいから、この「お茶づけ」を食べていた記憶があります。
最初は「のり茶づけ」がいちばん好きで、次に「さけ」、「梅」は酸っぱいから苦手、だったのです。
「のり茶づけ」の棒状のあられがなんだか邪魔で、先にそれを食べて、スッキリさせてからご飯本体にとりかかる、というのが習慣でした。
いまの好感度は、「さけ」=「うめ」>「のり」。


先日、久々に「さけ茶づけ」を食べたのですが、何気なくパッケージを眺めていて、「えっ?」と驚いてしまったのです。


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この、裏面の「作り方」。

 茶わんに軽く1杯のご飯(100g)を盛る。その上にお茶づけの素をかけ、お湯(150ml)を注いでできあがり。


永谷園の「お茶づけ」の作り方くらいは、こんなに丁寧に説明しなくても、みんな知ってるだろ……と思うのですが、「分量」まで数値化して書かれているんですね、いまは。
「いまは」って書きましたけど、いつごろからこうなっているのだろうか。


で、驚いたのは、この「作り方」で、「お湯を注いでできあがり」の件です。
僕が子どもの頃、母親がつくってくれる「永谷園のお茶づけ」は、文字どおり、ご飯にお茶づけの素をかけ、その上から「お茶」を注いだものでした。
しかしながら、僕は不精者なので、自分では、いちいちお茶をつくって入れるのがめんどくさくて、ずっと、ヤカンでお湯をわかして、そのお湯のまま注いでいたのです。
それを見るたびに、母親は、「それじゃ『お湯づけ』だよ。美味しくないよ」と苦笑していました。
僕としても、内心「これはたしかに『お茶づけ』じゃないかもしれない……」と逡巡しながらも、お茶だと渋みもあるし、そんなに味は変わらないはずだと、「お湯づけ」を作り続けていたのです。
そもそも、あの緑色の旨味玉みたいなのが入っていれば「永谷園のお茶づけ」だろう、と。
毎回、「本当は『お茶』でつくらなきゃいけないんだけどね……」と軽い後ろめたさを抱きつつ。


ところが、この袋の「作り方」をみると、永谷園さんが「おいしい食べ方」として、お茶じゃなくて、「お湯を注ぐ」というのを公式に認めているじゃないですか!
よかったのか「お湯づけ」で! 
これまで僕が積み重ねてきた、小さな後ろめたさを返して……


これって、昔からそうだったのかな。
それとも、最近になって、「お湯でOK」になったのか。
この「作り方」の挿し絵には「急須」が描かれているのだけどなあ。
世の中の大多数の人にとって、「永谷園のお茶づけ」は、「お湯でつくる」のが「常識」なのでしょうか。
でもさ、それってやっぱり、「お湯づけ」なんじゃない?