いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「金八先生の教え」と「江戸しぐさ」の境界

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僕は『3年B組金八先生』が「理想の教師像のひとつ」として信奉されていた時代に小学生で、この回もリアルタイムで観ていました。
そのときは、子どもなりに「ありきたりだけど、いい話だなあ」と感じた記憶があるのです。


で、この記事を読んで最初に思ったのは、「でもさ、フィクションのドラマの話だし、そこまで目くじら立てるような話でもないんじゃない?」ということでした。
あのときみんなが感動したのは「学術的に正しかったから」じゃなくて、「人という存在に対してのある種の真理だと感じたから」だと思うし。
それを、いまさらこうして「嘘でした」ということで謝罪されても……
どうせなら、ずっと騙してほしかった、かもしれない。


しかしながら、あらためて考えてみると、やっぱり、こういう発想って、『江戸しぐさ』のような「嘘だけど、いい話」を肯定しているってことなのかもな、という気がしてきました。


ああ、でもどうなんだろう。
あのエピソードは、「金八先生自身の解釈」であっても問題ないのではなかろうか。
みんなあの話を、そこまで「学術的に正しい」なんて思っていなかったのではないか。
でも、金八先生って、「国語」の先生なんだよね……


そもそも、「いい話だから、学術的に間違っていても、構わないじゃないか」というのは、まさに「江戸しぐさ肯定派」の理屈です。
誰も実害を受けていないのだから、と言うけれど、そうやって、「良い話だから、嘘でも許す」というのが常態になると、「いい話の仮面をかぶって、自分の都合のいいことを信じさせようとする人や勢力」にとってはどんどんやりやすくなっていく。


あれこれ考えてみたのですが、どうも、スッキリしない話です。
フィクションであることが前提のテレビドラマに、どこまでの「正しさ」が要求されるのか、というのも含めて、難しいなあ、と。


これって、「許される」のか、「許されない」のか。
僕は正直なところ「いまさら、そんなこと言わなくても……」なんですよね。
ああ、『江戸しぐさ』には厳しくても、昔の自分が心を動かされたことには、寛容になってしまうのだな。
江戸しぐさ』を擁護している人たちも、こんな感じなのかもしれないな……



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