いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

息子の自転車の補助輪を外した日のこと

昨日、5歳の息子と一緒に近所の公園に行ったんですよ。
自転車の練習をするために。
いま、息子は補助輪つきの自転車に乗っていて、本人はとくにそれを外したいという気持ちは持っていないというか、むしろ、なんでわざわざ補助輪を外すなんて危険なことをやらなければならないのか、という感じだったのですが、来年からは小学生なので、練習しておいたほうがいいかな、と。
僕自身は、小学校何年生かまで補助輪付きの自転車に乗っていて、ちょっと気まずい思いをしながらも、なかなか外せなかったんですよね。


僕に似たのかインドア派の息子は、自転車の練習には基本的に興味がなく、「砂場で遊びたい!」とか、「追いかけっこしよう!」などの提案を次々としてくるわけです。
そもそも、本人としては、家で『名探偵コナン』のDVDを観たいというのが、ゴールデンウイーク最終日の希望だったみたいですし。


まあ、そこをなんとかなだめすかせて、練習したわけなのです。
ドラマなどでは、子供が何度も転び、それを父親が励まし、最後にはようやく補助輪なしをマスターし、傷だらけの息子と父親とのキズナが深まる、というのが定番なのですが、こういうのって、実際にやってみると、ドラマでは描かれていないところが、案外大変だったりするのです。


まず、補助輪を外すというのに、けっこう手間取ってしまって。
補助輪は大きなネジみたいなので固定されていたのですが、家にあったスパナではサイズが合わず、しょうがないのでホームセンターでレンチを買ってきて、試行錯誤しながらようやく外すことができました。
そして、いざ自転車の練習をはじめてみたのですが、どういうふうに教えたら良いのか、けっこう悩むんですよねこれが。
自転車指導法をネットで検索してくるべきだった……と、何度も思いました。


補助輪なしの自転車があって、息子に「じゃあ、これで練習しろ!」と言っておけば、勝手に練習して乗れるようになってくれるようになる、というわけもなく。
補助輪なしの自転車というのは、基本的にはある程度スピードが出ている状態になると比較的安定するのですが、問題はその「スピードが出て安定するまで」なのです。
今回は、自力で漕ぎ始めて安定するスピードに乗るのは難しそうだったので、僕がしっかり後ろから自転車を支えて押し、スピードに乗ったところで手を放し、とりあえず息子に補助輪なし走行を体験してもらう、というのを目的にしました。


で、何度も転んで、泣きながらもがんばって……という『さようなら、ドラえもん』のような展開を内心期待してたのですが、これが案外、上手くって。全然転びません。
けっこうスイスイと補助輪なしで乗り回していました。
まあ、いちばん難しい漕ぎ始めのところを懇切丁寧にサポートしているのですから、当たり前といえば当たり前。
それでも、運動音痴には自信がある父親としては、けっこうホッとしてもいたのです。


こういう体験をしてみると、人にものを教えるというのは、実に難しいというか、考えるべきポイントがたくさんありますね。
今回にしても、「どこまでの上達を今回の目的にするか」「どこまでサポートするべきなのか」あるいは「あえて転ぶことに慣れさせる」べきなのか。どの段階で、「手を離す」のが一番良いのか。
僕の考えとしては、とりあえず、あまり厳しくして、自転車に乗るのが嫌いになるというのは避けたい、というのがあったんですよね。
ただ、いつかは転ぶ、ということを考えると、それが正しいのかどうか。
さらに、この時期に補助輪を外すということそのものに、そんなに根拠があるわけでもない。


人にものを教える、というのは、すごく難しい。
さまざまな本を読んで、知識を得ているつもりでも、現場に出てみると、「自分のイメージ」を押し付けてしまっているだけ、なんてことが、少なからずあるのです。
子供に自転車の乗り方を教える(というか、乗れるようにサポートする)だけでも、無数の選択肢があり、そこに「正解」があるのかは、よくわからない。
ただ、こうやって「教えさせてもらう」ということには、本で得た知識とはまた違った「血肉となるような経験」が詰まっているような気がします。
子供って、とくに幼稚園くらいの子供って、部下とか上司、先輩後輩とは違って、自分の感情を親にぶつけることにあまり遠慮がありませんしね。
ものすごくストレートなフィードバックが得られるのです。


……フィードバック、なんて言ってみましたけど、まあ正直、オッサンには自転車の乗り方を教えるのも、けっこうきついな……というのが実感でもあったのですけど。
ずっと屈んで自転車を押していたので、今日は朝から筋肉痛。


思い返してみると、僕自身は、自転車の乗り方を誰かに教えてもらった記憶って、あんまり無いんですよね。
みんなが補助輪なしで乗っているので恥ずかしくなり、意地になって外して乗り始めたら、案外乗れてしまった、というのをなんとなく覚えているのですが、実際は、たぶん両親のどちらかが練習に付き合ってくれたはずです。父親は仕事人間で毎日夜も遅かったので、たぶん、母親だったのではないかな。


教えられる側は、覚えてないんですよね、こういうのって。
手の洗い方や、歯の磨き方、お風呂での体の洗い方や、電車の乗り方、みんな、誰かがいつか僕に教えてくれたはずなのに、何一つ、「それを身につけた瞬間のこと」は、覚えていないのです。
でも、誰かが僕に教えてくれたおかげで、いま、こうしていろんなものを受け継いでいるのです。


帰り道、「どうだった?」と尋ねたら、ちょっと誇らしげに「気持ちよかった!」と答えた息子をみて、僕はとても嬉しくなりました。
お前は今日のことをきっと忘れてしまうだろうけれど、僕はたぶん、ずっと忘れないよ。