いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

やりすぎない。

参考リンク(1):野次や文句はブロガーにとってご褒美 - Hagex-day info


おお、あのHagexさんに言及されたぞ!と、けっこう高揚しつつ読みました。

おっと、話がずれてしまいましたが、観客気取りで「悪意がある」ユーザーのコメントにイライラしたら、「かかわったら負け」と思わず全力で反論すべきです。


僕自身は、これに関しては、賛成できないんですけどね。
Hagexさんみたいな、徹底的にやれるだけの覚悟と能力がある人以外はやらないほうがいいと思います。
(Hagexさんも、むやみやたらと殴り合えと仰っているわけではないです、念のため)


ずっといろんなブログや個人サイトをみてきて、僕はこんなことを考えるようになりました。
参考リンク(2):個人サイト「大国の興亡」(琥珀色の戯言)
というかこれ、もう8年前に書いたものです。
「さむたま国」とか、多くの人は「何のこと?」って感じじゃなかろうか(『侍魂』という伝説的な人気サイトがあるのです)。


実際、2005年にこれを書いたあとも、ブックマークコメントやコメント欄の書き込みにイライラして、揉め事を起こしたこともたくさんありますし、言葉が足りなかったり、誤記があって迷惑をかけたことも少なからずありました。
人は、頭で理解しているつもりのことでも、忠実に行い続けることは難しい。


泣きそうになったり、顔を真っ赤にしたりしながら、ブログをやってきて得たひとつの処世術があります。
それは、「やりすぎない」ということでした。
ネットでの言及って、自分の弱点をあまり見せずに、他者の弱みをあげつらうことが可能じゃないですか。それはけっこう快感だし、「正論」には反撃しにくいのは確かです。
ただ、そうやって正論を振りかざし続けたり、高いところから悪口を言い続けていると、世間の反応の「潮目」みたいなものが、変わってくるのが、なんとなくわかる。
「この『正しいこと』で周囲を押しつぶそうとしているヤツ、うざい」「調子に乗り過ぎ」
たくさんブックマークコメントがつくエントリを眺めていると、そういう「よほどの炎上案件でなければ、なんとなくバランスをとろうとする群集心理」みたいなものを感じることが多いのです。
みんなが一斉に叩いている案件では「それほど叩かれなくても……」という人が、途中から少しずつ増えてくる。
逆に、みんなが絶賛するようなエントリには、途中から、「でも、オレは例外だ」というような批判が増えてくる。


ブログのエントリを書くときにも「自分にとっての正しいこと」を書きすぎると、書いたほうの気合いだけが空回りして、あまり反応を得られなかった、という経験が多々あります。
本の紹介でも「こちらが好きすぎて、その愛情が溢れすぎると、かえって読む側が引いてしまうのかな」とも思うのです。むしろ、ちょっとクールダウンして書いたときのほうが、褒めてもらえることが多い。


Hagexさんのたとえを借りれば、「蠅を叩くという行為も、あまりに徹底的にやっている姿を見せつけると、それを見ている『蠅じゃない普通の人』までドン引きしてしまう」のです。
いくら「正しいこと」でも、それをずっと叫び続け、相手を罵倒し続けている人は、少しずつ敬遠されていく。
その「力」が自分に向かってきたらめんどくさいことになる、などと思われてしまうこともある。


僕はけっこういろんな人に会うのですが、世の中には「話が通じにくい人」は存在します。それも、少なからず。
明らかに「おかしなこと」を言ってくる人もいるのですけど、そういう人に対するときに肝に銘じているのは「けっして安易に妥協しないこと。でも、やりすぎないこと」なのです。
相手が撤退して矛を収めてくれれば、基本的には、それ以上は追い詰めない。
それは、「やさしさ」でもなんでもなくて、「処世術」として。


多くの普通の人生において、「人にうらみを買うこと」は、得策ではありません。
もちろん、恨みを買っても、やらなければならないことは存在します。
でも、「買わずにすむ恨みは、買わないほうがいい」。
相手が「どうしようもない人」なら、なおさら。


相手がどんなヘンな人でも、人間のクズであっても、そいつが持ったナイフで刺されたら、僕は死にます。
ひとりの人間が自分を犠牲にしてかかってくれば、その攻撃を確実に防ぐのは、すごく難しい。


佐藤優さんが『人に強くなる極意』という本のなかで、こんなことを仰っています。

 びびらない力、胆力のつけ方をここまでいろいろ説明してきましたが、中には大いにびびらなければいけない場面もあります。たとえば新宿の駅かどこかで怖そうな人たちに囲まれそうになった。そんな時は一目散に逃げるべきです。


 彼らと対決するとか、理屈で説得しようとしても無駄です。相手はあきらかにお金かお金になりそうなモノを奪おうと近づいてきている。そんな相手に対してはとにかく逃げる。


 ビジネスの現場でもそのような場面があります。たとえば押し売りのような人間が来て、なんでお前の会社はうちの商品を買わないんだと因縁をつけてくる。あるいはお店などでも突然怖い顔の人がやってきて、「おしぼりはいらないか」とか、「観葉植物はいらないか」と聞いてくる。


 そんな時は面と向かって相手の言葉に反応してはいけません。たとえば「いや、ウチは使い捨てのおしぼりしか使わないから」などと断ろうとすれば、「こちらにも使い捨てのおしぼりはある」といわれる。「タオルなら必要だけど、おしぼりはいりません」などと断ろうとすると、「タオルも扱っている」などとからみついてきます。


 相手はこちらに断る理由をいわせて、それを一つずつ潰してくる戦略ですから、とにかく理由をいわないこと。ただ一言「契約自由の原則に基づいてうちは取引しません」と突っぱねる。契約自由が法的に認められていて、買うか買わないかの判断は当然自由。その原則だけで押し通す。こちらを食い物にしようと虎視眈々と狙っている連中に対しては、大いにびびってシャットアウトする必要があります。


 逃げてはいけない場面で逃げ、逃げるべきところで逃げない。そこのところがチグハグな人が結構多いです。いじめの問題なんて特にそうで、自分の子どもがいじめに遭っていたら、無理して学校に行かせる必要なんてありません。


 相手はそれこそ理屈の通じない連中です。そんなところに無理に行かせても問題が改善するわけがない。こういう時こそ逃げるべきなのです。親であれば子どもに逃げていいぞと、学校に行く必要などないというメッセージを発してやるべきでしょう。


 それを「逃げるのはよくない」などとトンチンカンなことをいったりするから、子どもは追い詰められて最悪の結果、自殺にまで至ってしまう。


最近観た、映画『42』にも、すごく印象的な場面がいくつかありました。

『42』というのは、こんな話です。

あらすじ: 1947年。ブルックリン・ドジャースのゼネラルマネージャーを務めるブランチ・リッキー(ハリソン・フォード)は、黒人青年ジャッキー・ロビンソンチャドウィック・ボーズマン)と契約、彼をメジャーリーグ史上初の黒人メジャーリーガーとして迎える。だが、白人以外には門戸を開かなかったメジャーリーグにとって彼の存在は異端なものでしかなく、チームの選手たちはもちろん、マスコミや民衆からも糾弾される。そんな状況ながらも、背番号42を誇るようにプレーするジャッキーの姿は次第に人々の気持ちを変えていく。

 僕がこの映画のなかでいちばん印象に残ったのは、血気盛んで、これまでも差別してくる白人たちに対して、理不尽なときにはきちんと「抗議」してきたジャッキー・ロビンソンに対して、リッキーが「白人のものだったプロ野球(厳密には、ニグロ・リーグという黒人の職業野球リーグがあったのですが)でやっていくための心構えを説いた場面でした。

 「やり返さない勇気を持った選手になってほしい」


また、この映画のなかで、ジャッキー・ロビンソンは、相手チームの監督に、ひどいヘイトスピーチを浴びせられます。
憤るチームスタッフに、リッキーは「彼のおかげで、ロビンソンは『同情』を得ることができる。むしろ感謝すべきかもしれない」と語るのです。


ネット上でも、特定のブロガーに対するあからさまなヘイトスピーチは、たぶん、見ている大部分の観客が「不快に感じている」はずです。
他のブロガーがやられているのをみて、あなたが不快に感じるのと同じように。
ネットでは、極論をまくしたてる人や、失うものが無いと自分で思いこんでいる人の声ばかりが可視化されやすいけれども、多くの常識的なサイレント・マジョリティも、実際は見ているのです。


だから、自分の手をそんなに汚す必要は、ないと思う。


……というような「正論」を書くと、さらにいっそう嫌われてしまうわけですけれども。


ただ、歴史を考えれば、平清盛みたいに、「徹底して源氏の嫡流を殲滅し、子どもの頼朝まで消しておけば、あんなことにはならなかったかもしれない」という例もあるので、「やりすぎない」のが常に正解だとも言い切れないんですけどね。
まあ、そういうのは、「大物」にしかあてはまらない「特例」です、きっと。


人に強くなる極意

人に強くなる極意