いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「生存者バイアス」と「知ってるつもりバイアス」


hagex.hatenadiary.jp
これを読んで、僕にもモヤモヤが伝染してしまったのです。



うーむ、なんかムカつく、お前が言うな、って感じがする。
でも、書かれていることをしっかり読んでみると、「強制されたわけでもなく、女性の側は大学生(18歳以上)で、お金をもらって『割り切って』交際していたのだから、それを週刊誌に『証言』するのは裏切り行為だし、週刊誌は、そういう大人どうしのお金と痴情のもつれを嬉々として記事にするべきではない」ということなんでしょうね。
まあ、そう言われるとあんまり違和感はないんですよ。そんなふうに感じる人もいるんだろうな、って。
こういう意見が女性側から出てくるというのは、「女の敵は女、なのか?」とか、ちょっと思ったのですが、男がこういうことを言うと、発言者の属性が男性だというだけで、叩かれるだろうな(あるいは、発言の機会も持てないだろうな)という気もします。
こういう林真理子さんの発言が掲載されるというのは、載せる側の雑誌や編集者の思惑、というのもあるわけで。
ある意味、林真理子という人に「代弁」させているようにも感じるのです。
そういうのが、この発言の「いやらしさ」であり、その尻馬に乗ってしまう、はあちゅうさんへの嫌悪感にもつながっている。
そもそもこの話、タレ込んだのは本人たちではない可能性があります。その女性の恋人が情報源ではないか、と言われているようです。でも、自分の彼女が県知事に金で囲われてたらそりゃ腹も立つだろうし、権力者相手だったら、週刊誌にタレ込むのがいちばん効果的な復讐ではありますよね。僕がこの恋人の立場だったら、同じことをやるのではなかろうか。


だいたい、この林真理子先生のコメントの「印象操作」っぷりといったら、あまりに露骨すぎて、うへぇ、って感じなんですよ。


「名門女子大生という社会的に甘やかされる場所」「適当に売春」「タレ込む」
こういうネガティブな修飾語や動詞を織り交ぜることによって、読んだ人にこの女子大生への悪いイメージを植えつけることができる……はずのですが、やりすぎると、今回の林真理子大先生のように、「とても押しつけがましくて、不快な感じ」になりますから、気をつけましょう。
印象操作も、やりすぎはかえって反発を招きます。


あなたは、この女子大生の何を知っているのか、と。
そして、この件に関しては、年長で、知事という立場にある人間のほうが自制すべきなのは明白なのに、女性の側ばかり貶めているのは、やっぱりおかしい。
大学生だって、高校生がちょっと年を重ねたくらいのものだし、今の大学生は、林さんや僕の時代よりも、はるかに金銭的に苦しい人が多いのです。
だから売っていい、ってことはないよ、というか、だからこそ、目の前の3万円のために、将来の1億円をフイにするようなことはやめたほうがいいのだけれど。

貞操観念」みたいなものも、たぶん、林さんや僕の世代と、いまの若者世代とは、変わってきているんですよね。それが良いとか悪いとかではなくて。


ただ、僕は林真理子さんの発言に対しては、「自分の価値観を押しつけることを生業にしてきた人だし、自分が大学生だった頃と比べてしまうのも、しょうがないよね」とも思うのです。


僕だって、子供が小学校に入学して、実際にいまの学校であれこれ体験してみるまでは、自分が小学生だったころの学校の姿と比較して、メディアや他のブログの受け売りで「今の学校教育はダメだ」なんて考えていたのです。「今」を知らないにもかかわらず。
「自分は知っている、わかっている」と思い込んでいる人ほど、こういう「知ってるつもりバイアス」にとらわれてしまう。


はあちゅうさんは、林さんよりずっと、いまの大学生に近い年齢でもあるし、「名門女子大生」だったわけじゃないですか。
それなのに、これに「大賛成」なの?
「名門女子大生」って、そんなに社会的に甘やかされているのかね。
「オールナイトフジ」の時代は、もうとっくの昔だよ。
はあちゅうさんは「甘やかされていた」のでしょうか?
大学生の頃、目の前のお金とか権力を持った男を軽々とはねつけるほど、鉄壁の貞操観念を持っていらっしゃったのでしょうか?
「ちゃんと拒否しない女も悪い」
程度に差はあれど、そういう世間の空気に、多くの人が苦しんできて、そこに風穴をあけるのがMeToo運動だったはずなのに。


個人的には、はあちゅうさんのこういう言動には「媚び」しか感じないんですよ。
でもまあ、こういうのには「好き嫌いバイアス」があって、僕がもともとはあちゅうさんのことを嫌っているから、ネガティブに受け取ってしまう傾向がある、というのも否定はできません。
はあちゅうさんも林真理子さんが好きだから、「大賛成」なのかもしれないし。


人っていうのは、その発言の客観的な正しさよりも、発言者のことを好きかどうかによって、賛否を決めてしまいがちな生き物だと僕は思っています。
好きな人の変な言葉は、深読みして「何か真意があるはず」とか思ってしまうし、嫌いな人のまともな言葉は「あいつがそう言うなら、なんか納得できないな」って考えてしまう。


fujipon.hatenablog.com



僕は最近、この本を読んで、なんだかモヤモヤしていたのです。
fujipon.hatenadiary.com


 阿川佐和子さんと大石静さんの対談本なのですが、中に、こんな記述があるのです。

大石静大胆な表現は、昨今のテレビではまったくできなくなったわね。


阿川佐和子セクハラ、パワハラ禁止の時代ですから。男とテレビが面白くなくなったのはセクハラ、パワハラがあると思うんですよね。


大石:男もね(笑)。


阿川:世のおじさんはみんな、セクハラとパワハラにおびえています。日本の、いや世界中の男をダメにしている気がするんですけど。もちろん、とんでもないセクハラおやじは制裁を与えないといけないと思いますけど、ちょっと制裁モードが行き過ぎているような……。


大石:男の人が職場でエッチな冗談も言えないようじゃ、つまんないもんね。脚本家になりたてのころ、テレビ局のおじさんはみんなエロくて人間臭くて、そういう話を聞くのが大好きだった。落ち込んでいたらエッチなジョークで励ましてくれたりして。一方で、人妻の私に「温泉行こう」「上に部屋とってあるよ」と言ってくるおじさんもいたな。


阿川:そういうとんでもないおじさんも世の中には存在するってことを、とりあえず知っておいたほうがいいと思うんです。じゃないと、いざというとき逃げる知恵がつかないから。コイツは危ないぞって察したら、いいネタとして取っておこうくらいの気持ちでしばらく様子を見てどうやったらこの危機から逃れられるか、必死に手立てを考える。そこに生きる知恵がいっぱい詰まっている気がするんですね。


大石:そうそう。いくらでもネタが転がってた。


阿川:最近は男も女も、そういう危険と紙一重な経験をしなさすぎて、だから羞恥心がなくなってるんじゃないかと思う、逆にね。


 これぞ「生存者バイアス」!
女の敵は女」なんて言われることもありますが、権力を持った男にうまく取り入って、あるいは上手にあしらって成功してきた女性たちには、こういう考えの人が少なからずいるのだと思います。
 こういう価値観のなかで生きてきて、もう還暦もこえている人たち(林真理子さんもそうですよね)をいまさら断罪すべきではないのかもしれませんが、「空き巣に入られたおかげで、泥棒の怖さがわかるようになってよかったね」みたいな話じゃないですかこれ。
 実際は、こういうセクハラ、パワハラをうまくかわしたり、拒絶することができなくて、人生をぶち壊されてしまった人がたくさんいるはずです。
 真面目だったり、不器用だったりする人のほうが、被害者になりやすくて、誰にも言えずに、苦しんでいる。
 僕が運転免許をとってすぐ、車をぶつけてしまったときに、父親が呆れながら、「まあ、車って、ぶつけてみないと、車幅感覚がわからないものだからなあ」って言っていました。
 たしかに、そういうものではあるのでしょう。
 でも、最初の1回は、そういう「手痛い勉強」レベルで済むとはかぎらない。
 いきなり人間を轢いてしまえば、人生台無しになってしまう可能性もある。
 そこには本人の注意とともに、「運」みたいなものもある。


fujipon.hatenadiary.com

 

 正直、僕もよくわからん、と思うことが多いんですよ。半世紀近く生きていると、価値観の変遷みたいなものにさらされてきて、現在地が、よくわからなくなる。


 もう30年前になりますが、こんなニュースがありました。
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp


 当時の空気は、僕が記憶しているかぎりでは、「総理大臣が愛人を囲うなんて許せん!」というよりは、「総理大臣ともあろうものがケチだな」とか、「もうちょっと口の堅い(ちゃんとした?)相手を選べよ」とかいう嘲笑が大勢を占めていました。
 そういう立場の人には「プロの愛人」がいるのは「公然の秘密」みたいな時代だったのです。


 家族の関係の多様化とか、未婚、非婚、子供がいない夫婦などが当たり前になってきた世の中なのに、公人の婚姻に関しては、30年前よりも高い「モラル」が要求されているのは、不思議な気もします。
 でもまあ、そういう「週刊誌にいいつけられるような相手と付き合ってしまう」というのは、地方の首長としては、あまりにも不用意というかセキュリティ意識や能力にも疑問符がつきますよね。相手が「プロ」なら良いのか?と言われると、それはそれで悩ましい問題ですね(僕は「望ましくはないけれど、ちゃんと仕事をやってくれているのであれば、プライベートなことだから、咎めだてする必要もない」というスタンスです)。


 人間って、そう簡単には、若い頃に身につけた価値観を変えられないのではないか、と僕は思っています。
 だから、林真理子さんや阿川佐和子さんや大石静さんを「あなたは間違っている」と責めても、きっと、「変わらないし、変えようがない」。人生に成功している人なら、なおさらそうでしょう。

 世の中の空気や風潮、常識が変わるのって、時間がかかると思うんですよ。
 暴力や飢えで、変わらないと生きていけない場合を除けば。


 このエントリを読みながら、僕は考えていたのです。
hirorin.otaden.jp


 山本弘さんは、「オタク差別」が消滅しつつある理由を「オタクたち自身が誇りを持って自分たちの信念を主張し続けたからだ」と仰っています。
 僕も、そういう長年の主張に意義はあったと思います。
 ただ、実際のところは、「子どもの頃からオタク的な文化に触れて、親しんできた人たちがみんな大人になって、子どもの親になったり、社会で重要な地位についたりして、多数派を占めるようになってきたから」という「世代交代」がいちばんの理由ではないでしょうか。
 みんなが考えを変えたわけではなくて、古い考えを持っていた人たちが退場し、新しい常識を持っている人たちの割合が増えただけ。
 いまの親たちがテレビゲームや携帯ゲームに対して昔の親ほど抵抗がないのは、昔親だった人たちの意識が変わったわけではなくて、「自分たちも子どもの頃にやっていて、その体験を経て大人になったから」なのです。
 僕の感覚からすると、LINEなどのSNSは使い方を間違うと危ないツール、なのですが、若者たちに言わせると、「それなら、電話だって危険だろう」というくらい、「あたりまえのように、そこにあるもの」なんですよね。


 他人の価値観を変えるっていうのは、本当に難しい。
 いや、自分自身の価値観を変えるのが、いちばん難しいのかもしれません。


ルポ東大女子 (幻冬舎新書)

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