いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「誰のせいでもない悲劇」について

参考リンク:姉の話(はてな匿名ダイアリー)


この話が実話かどうかはわからないのだけれども、似たようはことは、たぶんこの世の中で少なからず起こっていると思うので、(ある程度は)実話だとみなして書きます。


これを読みながら、僕はずっと考えていたのです。
姉夫婦は、どうすればよかったんだろうなあ、って。
世の中には「誰の責任でもないのだけれど、誰かがなんとかしなければならないこと」というのが存在していて、この「自分の子どもの先天的なトラブル」なんていうのは、まさにそういったものなのだと思います。

「そういうことは起こりうる」と誰もが頭の片隅では考えているけれども、実際の頻度はそれほど高くはなく、大部分の人にとっては「他人事」の話。

テレビのドキュメンタリーで、先天的なトラブルを抱えている子どもを育てていく親の「美談」をみて涙する人は多いだろうし、それが「外野からみた理想」ではあるのでしょう。
「自分たちの子どもなのだから、責任を持って命を支えていく」
「生まれてきてくれて、ありがとう」


それは、子どもの責任でもなく、親の責任でもない。
誰にでも、ある一定の確率で起こりうることです。
でも、本当にそうなってしまった場合に、「自分がやりたいことを捨てて、子ども第一で生きていく」ことができるだろうか?


このお姉さんは、たぶん「無責任」だと責められるでしょうし、僕もそう思ってしまうところがあります。
だって、子どもは誰かが支えていかなければ、命を保っていけないのだから。
「作った子どもには責任を持てよ」って。
母親にばかり負担をかけるのは、父親の側があまりにも無責任です。
とはいえ、突然失踪するとなると「無責任な母親」との非難は免れないでしょう。


ただ、そういう「現実」を本当に前にして、「それでもこの子がかわいい」「自分の人生のいろいろなものを犠牲にしていい」と、すべての親が言い切れるのかどうか?
実際、子どもを持つ、育てるという行為は、親にとって、代替できない充実感とともに、失うことも多いのだと思います。
それは、身体的なトラブルを抱えていない子どもであっても。


この子の場合は、「誰かが、ずっとずっとサポートしないと、生きていけない」状態だった。
「追いつめられて、逃げたくなった」のは、責められないと思う。
その一方で、「逃げたいなら、逃げていいんじゃない?」とも言い切れない。
それが許される世界になったら、いろんなものが失われてしまうような気がする。
いや、きれいごとじゃない話をすれば、こういう場合の「子育て」とか「介護」とかを「やりたくない人はやらなくていい世の中」になれば、少なくともいまの世の中の「社会保障システム」はパンクしてしまう。
「自分たちで作った子どもなんだから、責任をとれ」「育ててもらった親なのに、施設に入れるなんてひどい」
こういう「家族責任論」を振りかざす人たちをみると「当事者がどんなにキツイか、わかってないんだろうな」「自分にはできるのかな、と想像する力が欠けているんじゃないかな」と思うんですよ。
しかしながら、こういう「理不尽な周囲からのプレッシャー」があるからこそ、日本の社会保障システムは、崖っぷちで踏みとどまっている。
これは「生活保護」なんかにも言えることなんですけど。


「こういうこと」は、誰にでも起こりうるのです。
そして、僕も含め、大部分の人は「無責任な親だ」と憤るか、「自分の子どもは『普通』でよかった」と胸をなで下ろすか。


この「姉」が、異常な性格だとは、僕には思えないんです。
こういう環境に置かれたら、こういう行動をとってしまう人は少なくないだろうな、と感じるだけで。


ところで、このエントリのなかで、お姉さんの元夫とその家族が「重度の知的障害者が多い夫の家系」のことを知らされていなかったことが言及されています。
このくだりがあるために、このエントリそのものが「優生学」的な読まれかた、つまり「そういうトラブルは遺伝するのだ」というイメージを与えてしまうのではないか、と僕は危惧しているのです。
本当に遺伝的な要因はないのか?と問われると、「精神医学の専門家ではない僕の知識の範囲内では、いまのところわからない」と答えるしかありません。


この場合「そういう情報を事前に公開しなかった夫側が悪い」というのもまた、「偏見」ではあるんですよね。
知っていたら結婚しなかったのか? 子どもを生まなかったのか?


「妻側の責任にしていた」というのが事実であれば、ひどい話ですけど。
これは、「どんな夫婦にでも、一定の確率で起こりうること」です。
(ただし、このエントリの人が書いているように、高齢での妊娠・出産ではリスクが上がるのは「科学的・統計的な事実」ではあります。それは知っておく必要があると思う)


この話、「世の中には、誰の責任ではなく、どうしようもないけれど、何もしないわけにはいかない状況というのがあるのだ」という、ひとつの例だと思います。

「社会が助けるべきだ」という結論を出してしまえればラクなのかもしれませんが、社会にそんなに余力がないことも、僕は長年みてきました。



この話を読むと、
「こういうことがあるから、出生前診断をやるべきだ」
というような意見も「暴論」だと切り捨てるわけにもいかないのかな、とか考えてしまいますしね……
「出産にはそういうリスクもある」のだと頭ではわかっていても、自分がそのトラブルの当事者になると、「そういうこともある」と割り切るのは難しい。


いまの世の中で生きていて、「交通事故で死ぬ人がいる」という事実に「そんなのおかしい」と感じる人は、あまりいないはずです。
「あれだけ車が走っていて、人が歩いていれば、そういうこともあるだろうな」というくらいが、「実感」だと思うんですよ。

ところが、自分が事故にあったり、大事な人を事故で失ったりすると「誰かが引くはずの貧乏くじを、自分が引いてしまっただけのこと」だと割りきれる人は少ない。
僕も無理です、たぶん。
「自分が買った宝くじは偶然当たることがあっても、自分が交通事故にあって死ぬなんてことは、偶然であっても許せない」


そんなものなんだろうな、と思うんですよ。
自分自身に起こった悲劇に対して、急に感覚を変えるのは難しいし、変えることができるのかどうかも疑わしい。
ただ、せめて、「他人事」に関してくらいは、「世の中には、誰のせいでもない悲劇があるのではないか?」と、誰も責めない解決法について、考えてみてもいいんじゃないか、と僕は思います。

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