いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「自主校閲する素人」と「手抜き校閲されるプロ」

参考リンク:物言いは“すべからく”上品に:日経ビジネスオンライン


この小田嶋さんのコラムは非常に興味深いものです。
「校閲の劣化」っていうのは、いまの出版文化にとって、大きな問題なんでしょうね。
「コストカット」「効率化」には勝てない。
(それが良いか悪いかは別としてというか、たぶん「悪いこと」なんですけど)



これを読んで、僕は「じゃあ、ネットの場合はどうだろう?」と考えていたんですよ。
ネットの文章も、いまは「世界に向けて発信しているんだから」と責任を問われることがありえます。
でも、少なくとも(作家や政治家や芸能人以外の)素人個人ブログレベルで、専門家が「校閲」していることは、ほぼ100%ないと思います。


実は、ネットが普及する前、ほんの15年前くらいまでは、「校閲されていない文章」って、ほとんど読む機会がありませんでした。
学級新聞や子どもの作文(先生が手を入れてたりしますけど)、同人誌、誹謗中傷の怪文書……
あとは、『リアル鬼ごっこ』くらいでしょうか。


僕がネットで文章を読み始めてみて、いちばん「面白いな」と感じたのは、そこに「誰もストップをかけない状態での、プライベートのダダ漏れ」があったことなのです。
誤字脱字、というよりは、いろんな誤解や思い込みを含めての「ふつうの人の情念」みたいなのがネットにはあって、恋人の悪口だとか、不倫の記録だとか、仕事のグチだとか、お見合いの記録だとか、「ちょっとこれ当事者が知ったらヤバいんじゃない?」と言うような文章が、けっこうノーガードで散りばめらていたんですよね。
だから、あの頃のネットに書かれていたものは、本当に面白かった。
当時は、「書籍化を狙って」なんていう野心もなく、ただひたすらに「書かずにはいられない情念」が、ネットで暴走していたのです。


リスクマネジメント、という観点からいえば、今みたいに「そんなことを書いたら危ない」という自主規制が働くほうが良いのですが、純粋に「読む側」からしたら、あのカオスの時代は、すごく面白かった(ムカつくことも多かったけど)。


「校閲」という文化はすばらしいものだし、出版、マスメディアの今後のリスクマネジメントからいえば、やはり、「全部著者が書いたままにして、著者に責任をとらせよう」ってわけにはいかないと思うんですよ。
橋下さんも、佐野さんに怒っているというよりは、「それを掲載した『週刊朝日』」と、系列会社である朝日新聞社に対して憤っているわけだし。


でも、書く側としては「注意しないとなあ」と思う一方で、読む側としては、「ネットの文章って、ちゃんと校閲されればされるほど、カオスな面白さは失われていくんじゃないかなあ」と寂しくなります。


「プロの文筆家は、校閲抜きだとどんな文章を書くのか?」って、けっこう興味深くもあるんですよね。


素人が「自主校閲」し、プロが「手抜き校閲」される時代。
さて、両者は今後、どんどん近づいていくのか、それとも、さらに離れていくのか?

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