いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「ネット依存」の時代を生きて

参考リンク:ネット依存について思うこと | blog.yuco.net


これを読んで、僕がふと考えたのは、「そういえば、今みたいにネットばっかりやるようになる前、僕は『今ならネットをやっている時間』を、どう過ごしていたのだろう?」という疑問でした。
そんなに昔の話じゃなくて、せいぜい15年くらい前のことです。


でも、「そんなに昔の話じゃない」はずなのに、なかなか思い出せないものですね。
記憶を辿ってみると、テレビを見たり、ビデオを見たり、本を読んだりゲームをやったり……
ああ、結局いまとあんまり変わらないかも。
当時はもっと仕事が忙しくて、自分の時間そのものが少なかったしなあ。
いまは子どもがいるので、「純粋な自分のためだけの時間」というのは、やっぱり少ないといえば少ないんですが。


いま、電車の中ではスマホをいじっている人が多いし、外食で注文のあと料理が出てくるまでの時間も、ネットに繋いでいる人って、けっこう多いですよね。僕もひとりのときは、ご飯食べながらネットやっていることさえありますし。

こういう時間って、「ネット以前」は、どうしていたんだろう?
電車の中では、文庫本とかを読んでいることが多かったと思うのですが、それ以外は、同行者がいれば少し喋ったり、窓の外をボーッと眺めたりしていることが多かったような気がします。
そういうボンヤリする時間って、けっこう貴重でもあり、いろんな思索ができたとは思うのだけれども、それが本当に大事だったか、有益だったかというのは、正直なんとも言えません。
食事の際などは「携帯はいじらずに、みんなで話をする」というのが我が家のルールですし、身近な人とのコミュニケーションの機会を確保するのは大切なはず。
でもねえ、「携帯をいじりたい衝動」っていうのはあるんですよね、そういう時間でも。
だいたいさ、食事の待ち時間も、大学時代に部活の後輩と一緒に行ったときなどは、みんなでそれぞれ口もきかずに一心不乱にマンガ読んでたりしたしなあ。


「誰かとつながりたい」でも、「あなたと(あるいは、特定の人と)密接に繋がりたくはない」
僕のネット依存って、そんな感じなのです。


ネットが何かをこじらせたのか?と問われたら、そうだ、と言いたい気もするし、ネットがなかったら、他の自分の殻に籠りやすいところに行っていただけなんじゃないか、とも思う。
少なくとも、テニスサークルに毎日通ったりはしてないだろう。


「人生には、何もやることがなく、流れる景色を鈍行列車の車窓から眺める時間が必要」なのかな。
もし、本当にそうなら、みんなそうしているんじゃないかな。
だって、スマホを所有していても、そうすることはできるのだから。
それは言い訳でしかなくて、僕はネット依存で時間を失い、その代価として「炎上騒動」を眺めてニヤニヤし、「有名人の死亡を他人より3分くらい早く知ることができているだけなのか?


ネットの怖さって、あんまりお金がかからなくて、24時間営業で、それなりの「反応」があることだよね。
そしてたぶん、僕は「ネットで誰かと繋がりたい」のではなくて、「ネットの中で、何かと繋がっていることにしておきたい」のだと思う。

そして、「それじゃダメだ」と自己否定しつつ、そういう生き方ができる時代に生まれたことを、ちょっとラッキーだったな、とも感じているのだ。

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