人はなぜ仏像を観たくなるのか?
僕も小中学生の頃までは、京都のお寺めぐりとかに連れていかれるのが苦痛でしょうがなかったんですよ。
人は多いし(とはいっても、いまから30~40年前の京都の混雑なんて、現在と比べたら全然たいしたことなかったけれど)、薄暗くて抹香くさくて、どれもそんなに代わり映えのしない仏像たちを眺めながら、こんなところよりも、ゲーセンとか書店のほうが、ずっと楽しいのになあ、大人って物好きだな……と思っていたものです。
ところが、今や人生の折り返し点をとっくに過ぎてしまった40代後半のおっさんは、わざわざ仕事帰りに九州国立博物館の「夜間開館」に寄るくらいには、仏像に興味を持つようになってきたのです。
みうらじゅんさん、いとうせいこうさんの『見仏記』は、読んではきたけど、そんなに影響されているわけでもないんですけどね。
最近いろんなことがうまくいかなくて、仏像でも拝んでくれば、少し、風向きが変わるのではないか、とも思っていたのです。
切実な信仰を持っているわけでもないのに、こういうときだけ「ご利益」を期待するのは虫が良い話ではありますが。
九州国立博物館に限らないのですが、美術館・博物館の『夜間開館』は、けっこうおすすめです。
ふだんは17時くらいには閉まってしまうのが、主に金曜・土曜の夜、17時から19時、20時くらいまで延長されるのですが、まだ浸透しきっていないからなのか、週末にあえてそんな堅苦しそうな場所に行く人が少ないのか、土日の日中よりもはるかに(そして、大概、平日の午前中よりもずっと)空いていることが多いんですよ。
もちろん、展示物の人気度によっても異なるのでしょうけど。
よほど詳しく見る派でもないかぎり、特別展を一回りするのに要する時間は1~2時間というところでしょうから(空いていれば、なおさらかかる時間も短くなります)、「ちょっと何か特別なことをした気分になりたい週末」におすすめです。
さて、この特別展『京都 大報恩寺「快慶・定慶のみほとけ」』なのですが、快慶・定慶(あるいは彼らの工房)の作とされる重要文化財クラスの仏像がたくさん展示されているのです。
13世紀の作ということですから、かれこれ800年くらいは制作されてから経っているわけで、それがこうしてほぼ原型をとどめて2019年に伝わっているということだけでもすごい。それこそ、戦火で焼けたり、動かすときに傷つけたりして失われる可能性も十分のですから。
いかにこれらの仏像が、丁重に扱われてきたのか、と想像せずにはいられないのです。
そして、子どもの頃は「みんな同じようにみえた」のだけれど、ひとつひとつ個性があり、つくった作者なりの主張もこめられている。
遠目にみれば、みんな同じみたいに見えるからこそ、それぞれの「個性」が際立つところがある。
仏像をみながら、僕はなんだかしみじみ感動していたのです。
それは、造形のすばらしさ、というよりは、この目の前にある像を数え切れない人が救いを求めて(あるいは、ただ一心に)拝んできて、その歴史の前に「衆生」のひとりとして僕が立っているのだ、ということに。
前に立つ人は変わっても、仏像はここにある。
結局のところ、生きていると、「何かに祈るしかない」という状況があって、それは、今も昔も同じなのだと思います。
僕が仏像に興味を持つようになった、というよりは、仏像を拝まずにはいられない人間に親しみを抱くようになった、ということなのでしょう。
子どもの頃は、なんでも自分の力で解決できるのだ、と無邪気に信じていた。
ちなみに、この九州国立博物館の展示では、定慶作の『六観音』のすべてが写真撮影できるようになっていました。
僕が訪れたときには本当に人が少なくて、写真も撮り放題。
千手観音が「餓鬼道」に堕ちたものたちを救済する菩薩だということもはじめて知りました。
世の中、まだまだ知らないことだらけです。
おおっ、『GANTZ』の千手観音!強敵!とか思ってしまって、申し訳ない。
会期は2019年6月16日(日)までだそうなので、興味を持たれた方はぜひ、行ってみてください。そんなに混んでないと思うので。
今回、小学校高学年の長男をチラッと誘ってみたのですが、「仏像に興味ないなあ、ゲーセンかイオンモールならつきあってもいいけど」と断られました。
ああ、歴史は繰り返す。
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