いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

(たくさん)読まなくても書けます

参考リンク(1):文章力を上げるヒントとか - ブログ(ブログ)


これを読んで、僕は考え込んでしまいました。
「本を読むと、書けるようになるのか?」と。


以前、森博嗣さんのこんな読書法を読んだことがあります。


『一個人』2008年10月号(KKベストセラーズ)の特集記事「2008年度上半期・人生、最高に面白い本」より。

(「もう一度、読み返したい本~人気作家10人がお勧めする究極の3冊」という記事の森博嗣さんの項から)

 昼間は大抵階下の工作室で作業をしているんです。長時間続けて同じことをするのが苦手なので、いろいろなものを同時並行で作っているんですよ。ゲラの確認や小説の執筆なども10分とか20分とか、小刻みに時間を区切って同時進行しています」
 工学博士であり、なかでも建築が専門の森博嗣さんは、自らが設計した工作室兼書斎で一日の大半を過ごしている。もとはガレージだったというその場所には、車の代わりに鉄道模型や飛行機模型が所狭しと並び、本棚らしきものは見当たらない。
「基本的に再読はしないので読んだ本はとっておかないんです。だから、本棚もありません。雑誌には数十冊ほど目を通しますが、小説は年に3、4冊しか読めないんですよ。一冊読むのに2~3週間はかかりますから、書くのと同じくらいの時間がかかっていることになります」
 一度しか読まない代わりに、どのページに何が書いてあるかということが思い出せるくらい丹念に読む。繰り返し読むことはないのに、1日2時間で20ページほどしか進まないのだそうだ。
「だって、書いてある文章から世界を頭の中で構築しなくちゃいけないわけですから、すごく大変じゃないですか。むしろ、みんながどうして小説を早く読めるのかわからないですよ。僕は一度読んだストーリーは絶対忘れないし、自分の経験と同じくらい鮮明に覚えています。その点、頭の中にあることを書き留めるのは楽ですよね。小説を書くということは僕にとって頭の中の映像をメモするような感覚ですから」


(中略)


 再読はしない森さんが例外的に3回読んだのは埴谷雄高の『死霊』である。
「どうやったらこういうものが書けるのか、その才能が素晴らしいですね。これを読むと、刀が研がれるような、感覚が研ぎすまされるような、そんな気持ちになるんです。僕にとっては言葉を味わう詩集のような作品です」


「たくさん読まなければ、文章はうまくならない」
僕もそう思っていました。
ところが、必ずしもそうとは限らない。
というか、「量」よりも「質」のほうが大事なのかもしれません。
森先生の場合は、大学の仕事に関する論文とかは、おそらくかなりたくさん読まれていたのでしょうし、いまは大学から離れておられるので、もう少し「娯楽としての読書」をされている可能性もありますが……


「たくさん読めばうまくなる」というのがアテにならないのは、この僕の文章を読んでいただければ、ご理解いただけると思います。
僕自身も「もうちょっと時間をかけて、一冊一冊ちゃんと読まなければダメなのでは……」と考えたことも、一度や二度ではありません。
家人からも、「あなたはたしかに読むの速いけど(とはいえ、1冊5分とかいうような『速読法』を駆使しているわけではなく、だいたい、文庫本で1時間に100〜150ページくらいのペースでしかありません)、本当に頭に入っているの?試しに3日前に読んだ本のあらすじ言ってみて」と言われていました。
で、思い返そうとしてみるのですが、筋の概略は覚えているものの、ディテールは3日前なのにけっこう忘れている……


意識的に「ゆっくり読むようにした」こともあるんですよ。
ところが、そうしてみると、ものすごく気持ち悪いというか、イライラするんです。
で、時間をかけて読むと記憶に残っているかというと、必ずしもそうではない。
ボーッとしながら、本の同じところをさまよっている時間が増えるだけでした。


というわけで、いまは、「同じ時間に50読んで20残るような読み方をするのなら、100読んで30残したほうが、結果的にはたくさんのものが得られるはず」と割り切って、自分のペースで読んでいます。
でも、本当に文章がうまくなりたい、作家になりたい、と考えるような人であれば、乱読よりも「これ」というテキストを、書き写したりしながら時間をかけて精読したほうが良いのではないか、とも思うんですよ。
僕にもその傾向がありますが「読書量を誇示したがる人って、読みやすい本をたくさん読んでしまいがち」なところがあるので。
それこそ、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』とかを、1ヶ月くらいかけて、少しずつ読んでいったほうが(ちょっと特殊な本なので、一般的な「文章修行」にはならないかもしれませんが)、実になる読書なのではないか、と。
そもそも、ビジネス書って、どの本も9割くらいは書いてあることは同じですからね。
読めば読むほど「他の本と違うところだけつまみ食いして、一冊読んだような気分になる」ことが多い。


糸井重里著『はたらきたい。』で紹介されていた書評家・永江朗さんの言葉。

 以前、ある雑誌で、社長さんや、それなりの肩書きのある人に百冊の本を挙げてもらう、というインタビューをやったんです。そこでいちばん多く挙がったのが「デカルト」でした。なかでも『方法序説』。原理的なものや、普遍的なものって、古ければ古いほど「使える」んですよ。


ただ、これも言っておかなければならないと思うのですが、ほとんどの人って、なんらかの形でインプットされたものしか、アウトプットの材料には使えないんですよね。
だから、どんな形であれ「自分が書くためには、他人が書いたものに触れる」ことが、不可欠なのです。
自分の子どもが言葉を覚えていくプロセスをみていくと、「あのテレビ番組を見せたのが原因か……あの絵本からか……」と、苦笑してしまうんですよね。


「上手い文章」って、正直、読んでも読んでも、よくわからないんですよ。
本人はうまいつもりで書いているであろう文章が、僕にとっては「クドい」だけだったり、支離滅裂なはずなのに「しみこんでくる」こともあったりします。
個人的には、「上手く書こうとしている文章よりも、何かを伝えたいという気持ちがこもっている文章のほうが、刺さってくることが多い」かな、とは思うのですけど。


参考リンク(2):「読書」についての覚え書き(琥珀色の戯言)



新装版 ほぼ日の就職論「はたらきたい。」 (ほぼ日ブックス)

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