いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

橋下大阪市長とリンカーンと「民主主義」の話

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 僕は大阪に住んでいるわけではないので、この結果についての「実感」は語れないのですが、僅差での決着で、「大阪都構想」は否決され、橋下大阪市長は政界引退を表明しました。
 個人的には、橋下さんの手法は強引に思われましたし、自分の進退を駆け引きの道具にして、重要な選択を「さあ早く!」と急かしているようにも見えましたし、現時点での「都構想」には反対でした。
 でも、こうして否決されてみると、「いまのままの大阪キープで良いのだろうか?」と、あらためて考え込んでしまいます。
 2つの意見のあいだでの選択ではなくて、「都」にするか、とりあえず現状維持か、という選択だったわけで、橋下さんのやりかたが「早すぎる」というのなら、今「そんな難しいこと、わかんないよ」と言っている人が、「わかる」ようになるのはいつなのか、とか。


 ただ、この否決を受けて、橋下さんが政治家をやめることを表明したのをみて、「橋下さんにとっての優先順位は、『大阪都構想を実現すること』と、『政治家として、人間として綺麗な引き際をつくること』のどちらなんだろう?」とも感じたんですよね。
 現在の地方自治のありかたって、かなり非効率なところが多くて、それでも既得権益を持っている人たちは、なかなかそれを手放したくなくて、という状況なのは間違いありません。
 それでも、「公」だからできることもあるし、「公」だから滞ってしまうところもある。
 これから、人口が減っていく日本という国では、行政もスリム化、効率化していくことが求められていくのは間違いありません。
 今回は否決された「都構想」も、否決されたことによって、あらためて再評価される時期が来るかもしれないな、と僕は思っています。
 もちろん、今回提出されたのと同じ形ではないとしても。
 橋下さんが、ドアを叩き続ける意思があれば、このドアは、いつか開くのではないか。
 それは、橋下さんにも、わかっているのではないか。
 ああ、でも純粋に「政治の世界に疲れたから辞めたい」とか、そういう感じなのかもしれませんよね。それなら、わかる。


 この大接戦を眺めながら、僕は「民主主義って、本当に不思議なシステムだな」と考えていました。
 

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スティーブン・スピルバーグ監督の映画『リンカーン』を観て、僕はこんなことを考えていたのです。

この映画、予告編を観ると「南北戦争を舞台にした、壮大な歴史ドラマ」で、「リンカーンの活躍で北軍が勝ち、アメリカが再統一され、ラストに『人民の、人民による、人民のための政治』の演説が流れて終わり」だと僕は思い込んでいたのです。

それが「リンカーンの映画」だろう、と。

ところが、150分の上映時間のこの映画の大部分は、ホワイトハウスと議会が舞台なのです。


リンカーン南北戦争中に「奴隷解放宣言」を出しますが、これだけでは、内戦終了後に奴隷制復活の可能性が残されます。

そこで彼は、南北戦争の収束がみえてきたのを受けて、「合衆国憲法修正第13条」の下院での可決をめざすのです。

憲法を改正してしまえば、よほどのことがないかぎり、奴隷制度を元に戻すことはできなくなるので。

ところが、共和党が持っている議席では、憲法改正のためには、20票も足りない。

おまけに、共和党のなかも一枚岩ではなく、「黒人にも完全な平等を!」と叫ぶ急進派もいれば、「戦争が終わって国がまとまるなら、奴隷制廃止にこだわる必要はない」と考えている人たちもいるのです。

そんななかで、この法案の可決のために、リンカーンと同志たちが、どのようにして多数派工作を行っていったのか?

これが、この映画のストーリーなんですよね。


南北戦争を舞台にした、大スぺクタル!だと僕も思ったんですけどね……

予告はそんな感じだったしさ。

とはいえ、冒頭や作中に「こんな短時間のシーンのために、こんなにリアルな戦場を撮影してしまうとは、やはりスピルバーグ!『プライベート・ライアン』の冒頭で、物語が始まる以前に、多くの観客をスクリーンから離脱させたスピルバーグ!」と再確認してしまいようなリアルな戦場シーンも挿入されているんですけどね(ちなみに、今回は腸がべっちょり、とかは無いです)。

こんなリアルな戦場シーンを入れなければ、制作費もかなり節約できると思うのですが(この映画のストーリーにはあまり関係ないといえばないですし)、それを入れずにはいられないのも、スピルバーグ監督らしさ、ではあるのでしょう。


この映画で、ダニエル・デイ=ルイスさんが演じているリンカーンは、絵的には「本物そっくり!」です。

考えてみれば、ほんの150年前くらいの人なのに、実際はどんな人だったかわからないというのも、なんだか不思議ではあるのですが、少なくとも「見た目は教科書でみたリンカーンそっくり」です。

この映画のなかでのリンカーンは、「奴隷解放と自由のために命を捧げた英雄」ではなく、アメリカの分裂、そして家族の分裂という危機に直面しながら、したたかに自分の最低限の目的を達成するための「落としどころ」を探っていく人物として描かれています。

リンカーンは、共和党の急進派からみれば「ヌルい平等主義者」であり、共和党の穏健派からすれば「いきすぎた理想主義者」なのです。

そんな中で、リンカーンは、奴隷制廃止を永続的なものとするための「合衆国憲法修正第13条」を成立させようとします。

まともな説得から、買収まがいの手段まで、あらゆる手練手管を尽くして(脅したりはしませんけどね)。


そして、リンカーンは、家庭内での軋轢にも悩まされます。

自分だけが戦場に行かなくて済むことに悩む長男、絶対に息子を失いたくない、と訴える妻、幼い息子。

英雄リンカーンでさえ、他人の息子を死地に送り出しながら、自分の息子は戦場に行かせたくない、という凡庸な親のひとりでもあったのです。


僕はこの映画を観終えて、考え込んでしまったんですよ。

「なぜ、リンカーンは、奴隷制度を廃止しようと思い、そのためにすべてを賭けたのか?」

この映画は、その疑問に答えてはくれませんでした。

作中では、その「動機」については、明示されていない。

いや、もっと言うと、そもそも「これが理由だ」というものは無かったのかもしれません。

でも、彼は「奴隷制度はやめるべきだ」という信念を持っていた。

そして、そのために力を尽くした。

リンカーンというのは、歴史上の偉人であるのと同時に「すごくヘンな人」ある意味「狂った人」ではないかと思うのです。

そうでもないと、ここまで「奴隷制廃止のためなら、なんでもする」ことはできなかったはず。

彼がもう少し理想主義的であれば、穏健派は抵抗したかもしれませんし、もう少し現実的であれば、なし崩し的に奴隷制度はどこかで復活することになったかもしれません。

結局のところ「政治」というのは、その「目的を達するための妥協点」みたいなものに、綱渡りをしながら粘り強くたどり着くことなのかもしれませんね。

理想と現実のあいだにある、狭い狭い道を通って。


そして、「民主主義」というのは、実に微妙なものだなあ、と考えさせられました。

僕自身が物心ついてからは、内閣不信任案が通るかどうか、というような場面でしか「国会での緊迫した決議」をみたことはないのですが、民主主義っていうのは、ひとつの国のなかで、さまざまな異論が出て、争っているような事項に関して、「国会で賛成多数であれば、規定の投票数を一票でも上回っていれば、それまで反対していた人も含めて、すべてがその決定に従わなくてはならないシステム」なんですよね。

この映画でいれば、あれだけ「憲法修正案」に反対していた人たちも、それが「可決」されれば、おとなしく従わなければならないし、実際に反対派たちはそうしました。

99対1ならともかく、51対49でも、49の側は、51に従わなければならない。

この映画の憲法修正の場合には、3分の2をめぐる攻防ですけど。

実際、51対49ならば、49の側が決まったことに現場で抵抗すれば、かなり混乱するだろうし、51の思い通りにはならないでしょう。

それでも、「民主主義国家」では、多くの場合、負けたほうは「自分の主張を引っ込めて従う」のです。

51対49と、49対51の実際の「差」は、わずかなものです。

敗れてもその決定に従うという「良心」がなければ、民主主義は成立しない。


日本人にはわかりにくい、なんて言う人もいるみたいですが、僕はこの映画、好きです。

トミー・リー・ジョーンズさんが「目的のためにとった行動」は、観ていて涙が出ました。


ほんのわずかな差で、橋下さんの『大阪都構想』は、敗れました。
でも、実際はほぼ半々の支持なわけですよ、賛成と反対は。
にもかかわらず、「勝った」ほうに従うというルールを、みんなが守っている。


勝ったのは「民主主義」というシステムで、橋下さんは、リンカーンほどズルくも強くも執念深くもなかったのかもしれませんね。