いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「作文が大嫌いになった児童の話」について


この『つらいことから書いてみようか』という本の冒頭に、こんな話が書かれていました。

 はじめに作文が大嫌いになった児童の話をしておきたいと思います。
 児童といっても、僕の後輩のAさんが小学五年生の頃、国語の時間に体験したことです。
 その日の国語は作文でした。先生は「何か良い行いとしたことを書いてください」と言いながら、黒板に「善行」と書きました。
 Aさんは風呂に入った後、洗面用具をきちんと片づけて出たところ、次に入ったお父さんが、「気持ちよかったよ」と喜んでくれたことを綴りました。
 でもAさんは、これからずっと風呂場を片づけなければいけないのかと思い、作文の終わりにこう書き添えました。
 「風呂場をきれいにするのも、毎日はしんどいと思います」
 Aさんは正直に書いたわけですが、先生に「こんなにも家族を喜ばせることができるなら、毎日しようと思います」と書き直されたそうです。
 「あれ以来、作文は苦手というより嫌いになった」と言うAさんは苦笑まじりにこうも言いました。
 「先生ですから直されてもいいんですが、心にもないことを書かれると、どうでもいいやって気になるでしょ。そのときは何も言えませんでしたけどね」
 Aさんとは逆に、先生にほめてもらえそうなことを、ついいい子になって書いてしまう子もいるようです。ですが、子どもが本心を隠して文章を書いて、文章が好きになることも、また自分自身を好きになることもありません。心に正直に書けないのなら、書かないほうがましです。
 子どもの文章の良否は、何といっても正直に書かれているかどうかです。大人の意見や考え方に左右されることなく、見たまま聞いたまま、あるいは考えたとおり、思ったとおりのことがうそ偽りなく書かれている。そんな作文にこそ、最大級のほめ言葉をかけてやってほしいのです。


 これは「子どもの作文」についての話なのですが、読んでいて、僕も子どもの頃、読む大人の目を意識して書いていたのを思いだしました。
 個人的には、周囲の人間が、「これは素直」「これは大人に媚びている」と決めるのも、あまり良いことではないという気はします。
 ただ、最初のお風呂場の話みたいに、「内容を美化するというか、歪めるようなことを『指導』されると、たしかに、自分が思ったことを書くのはイヤになるだろうな」とは思うのです。
 そうやって、子どもは「周囲の顔色をうかがう大人」になっていく。
 もちろんそれは、生存戦略として、間違っているとはいえないのだけれども。


 これはあくまでも「子どもの作文についての話」なのですが、ブログを書いていて、モチベーションが失われていく原因のひとつが、「添削したがる人」の存在なのです。
 書かれていることが社会への問題提起であれば、それに対する意見とか反論があるのはあたりまえです。
 でも、ある人が自分の経験や内面を語っているようなものに対しても、「そういうふうに行動したり、考えたりするのはおかしい」という反応を示す人がいるんですよね。
 それも、少なからず。
 その人たちは、「ネットという公共の場所に公開されているのだから、何を言われてもしょうがないだろ」と胸を張っているわけです。
 たしかに、それはそう、なのかもしれません。
 でも、頭のなかに溜まっているものを素直に掃き出そうして、「添削」されてしまうと、「書くことによって救われる」どころか、「かえって面倒なことに巻き込まれる」ことになります。
 読まれる文章でお金を稼ぎたい人もいれば、社会に何かをアピールしたい人もいる。
 その一方で、書くことそのものが「ストレス解消」になり、それ以上の報酬を積極的には求めない人もいる。
 みんなが「濃密に関わり合いたい」わけじゃない。
 夜の図書館のような「人の気配はあるけれど、それぞれが自分の世界に入り込んでいて、干渉してこない」ような空気感を好む人だって、いるんじゃないかな。
 

 それならチラシの裏に書け、という声が聞こえてきますが、それだと、なんとなく物足りない。
「王様の耳は、ロバの耳」という話が語り継がれているのは、「誰というわけにでもないけれど、誰か知らない人に聞いてほしい心持ち」「どこかで声に出したい気持ち」が、多くの人には存在しているからなのでしょう。


 おそらく、僕がみているネットの世界が殺伐としているのは、自分でそういうところを見てしまっているから、という面もある思うんですよ。ここは「はてな」だしね。
 ツイッターのタイムラインと同じで、「そういう人を、フォローしている」のでしょう。


 世の中には、マイペースに書くことを愉しんでいる人も、大勢いるはず。
 というか、そうであってほしい。


参考リンク:「若い女性がおだやかな環境でブログ書くためにはどうすればいいか」: 極東ブログ


 これを以前読んで、「どうすればいいのだろう」と、ずっと考えているのですが、うまい答えが見つからないんですよね。
 そもそも「どのくらい他人に読まれたいのか、反応が欲しいのか」も、本人にはわからないところがある。
 落ちはじめてみて、あらためて、自分の欲望の穴の深さに啞然とすることもある。


 10年前は、「一日100人くらい読んでくれたら、夢のようだなあ」と思っていたのに、1000人でも、「まだまだ」とか感じてしまう自分に呆れてしまうこともある。
 書いていることは、そんなに代わり映えしないのに。
 そんなに「読まれること」を目指していないし、これでお金をたくさん稼いでいるわけじゃないけど、人の欲みたいなのって、キリがないものではあるようです。
 それでいて、「あまり騒がしいところにいたくない」というのは、虫がいい話、ではあるのでしょう。
 でもまあ、人間って、基本的に「虫がいい」ものだしさ。

 
 なんだかとりとめのない話になってしまいましたが、個人的には、読む側として、他者が書いたものを、もうちょっと「そのまま受けとめる」「黙って見守る」ようにしたいなあ、と考えています。
 「政治的に正しいこと」しか書けない、書かれていない、つまらないネット社会に向かっていくのは、あまりにも悲しいので。