いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

『アナと雪の女王』は、「ありのまま」の敗北の映画だしね。

参考リンク:自分の話をするばかりで関係性の構築を拒否する人 - ←ズイショ→


これを読んで、以前、松たか子さんが、以前あるラジオ番組で、「自然体」と周囲から言われることについて話していたことを思い出しました。

「周りからは自然体といわれることもあるけれど、私にとっての自然体というのは、その場の雰囲気を読んで、それにあった、相手が自分に期待しているであろう行動をすることなんです。それが『自然体』と言われているだけで」


なんとも身も蓋も無い話ではあるし、子どもの頃から、「注目されてしまう人生」をおくってきた人ならではの「達観」であるような気もします。


自然体、とくに、周囲から「あの人は自然体でいいね!」って言われるような「自然体」って、実際は、けっこう「演技的」なものの場合もあるのです。


中谷美紀さんの演技についての、こんな話を読んだことがあります。
『ないものねだり』(中谷美紀著・幻冬舎文庫)の巻末の黒沢清さんによる「解説」の一部です。

 今でも強烈に印象に残っている撮影現場の光景がある。中谷さんに、沼の上に突き出た桟橋をふらふらと歩いていき、突端まで行き着いてついにそれ以上進めなくなるという場面を演じてもらったときのことだ。これは、一見別にどうってことのない芝居に思える。正直私も簡単なことだろうとタカをくくっていた。だから中谷さんに「桟橋の先まで行って立ち止まってください」としか指示していない。中谷さんは「はい、わかりました。少し練習させてください」と言い、何度か桟橋を往復していたようだった。最初、ただ足場の安全性を確かめているのだろうくらいに思って気にも留めなかったのだが、そうではなかった。見ると、中谷さんはスタート位置から突端までの歩数を何度も往復して正確に測っている。私はこの時点でもまだ、それが何の目的なのかわからなかった。


 そしていよいよ撮影が開始され、よーいスタートとなり、中谷さんは桟橋を歩き始めた。徐々に突端に近づき、その端まで行ったとき、私もスタッフたちも一瞬「あっ!」と声を上げそうになった。と言うのは、彼女の身体がぐらりと傾き、本当に水に落ちてしまうのではないかと見えたからだ。しかし彼女はぎりぎりのところで踏みとどまって、まさに呆然と立ちすくんだのだ。もちろん私は一発でOKを出した。要するに彼女は、あらかじめこのぎりぎりのところで足を踏み外す寸前の歩数を正確に測っていたのだった。「なんて精密なんだ……」私は舌を巻いた。と同時に、この精密さがあったからこそ、彼女の芝居はまったく計算したようなところがなく、徹底して自然なのである。


 つまりこれは脚本に書かれた「桟橋の先まで行って、それ以上進めなくなる」という一行を完全に表現した結果だったのだ。どういうことかと言うと、この一行には実は伏せられた重要なポイントがある。なぜその女はそれ以上進めなくなるのか、という点だ。別に難しい抽象的な理由や心理的な原因があったわけではない。彼女は物理的に「行けなく」なったのだ。「行かない」ことを選んだのではなく「行けなく」なった。どうしてか? それ以上行ったら水に落ちてしまうから。現実には十分あり得るシチュエーションで、別に難しくも何ともないと思うかもしれないが、これを演技でやるとなると細心の注意が必要となる。先まで行って適当に立ち止まるのとは全然違い、落ちそうになって踏みとどまり立ち尽くすという動きによってのみそれは表現可能なのであって、そのためには桟橋の突端ぎりぎりまでの歩数を正確に把握しておかねばならないのだった。


 と偉そうなことを書いたが、中谷美紀が目の前でこれを実践してくれるまで私は気づかなかった。彼女は知っていたのだ。映画の中では全てのできごとは自然でなければならず、カメラの前で何ひとつゴマかしがきかないということを。そして、演技としての自然さは、徹底した計算によってのみ達成されるということを。ところで、このことは中谷さんの文章にもそのまま当てはまるのではないだろうか。

 この中谷さんの演技に対する姿勢が、黒沢清監督に強い印象を残したということは、少なくとも日本の役者さんの大部分は、こういう形で「計算した演技」をすることはないのでしょうね。


 実際のところ、もし人が自分の欲求や思いついたことに対して、本当に「ありのままに」行動すれば、ほぼ確実に他人から嫌われるはずです。
アナと雪の女王』って、本当に「ありのまま」だったときのエルサは、他者からすれば「迷惑千万な存在」だったんですよね。
 「ありのまま」を封印し、自分の能力をコントロールするようになって、愛されるようになっただけです。
 触れるものすべてを凍らせる「ありのまま」を封印し、力をセーブしてスケートリンクとか作って歓心を買う。
 全然、「ありのまま」じゃないけれど、そうやって、人は「大人」になる。


 多かれ少なかれ、あるいは、自覚的であるかそうでないかは別として、人はみんな「演技」をしながら生きています。
  貴志祐介さんの『悪の教典』という小説のなかで、主人公のサイコパス高校教師が、こんなことを言っています(注・これは小説で、フィクションです)。

 人間の心には、論理、感情、直感、感覚という、四つの機能がある。そのうち、論理と感情は合理的機能、直感と感覚は非合理的機能と呼ばれている。合理的機能には、刺激と反応の間に明確な因果関係があり、非合理的機能は、次にどういう動きをするか予測がつかない。


 つまり、感情の動きには、論理と同様に、法則性があるということだ。人間の感情は、他人から認められたい、とか、求められたい、というような基本的な欲求が、その根底をなしており、軽んじられたり攻撃されたと思えば、防衛反応がはたらいて攻撃的になる。その逆に、相手の好意を感じたときは、こちらも好意的になる……。


 要するに、まったく感情というものが欠落している人間がいたとしても、きわめて高い論理的能力を持ち合わせていれば、感情を模倣(エミュレート)することは可能だということだ。


 まず、人の感情のパターンを収集する必要があった。そして、それがどういう場面で、どういう反応をするかを予測し、結果を見て、その都度、間違いを修正する。そうして、それらと同じように反応する疑似的な感情を心の中で育てていけば、最終的に、それは、本物の感情とほとんど見分けがつかないものになる。


人間は「心」とか「感情」を過大評価しがちだけれど、それは「非科学的なもの」ではなくて、「いまの科学では全体像が理解されていないだけ」なのかもしれません。
現在でも、ある種の薬で、感情の傾向みたいなものはコントロール可能ですし。


「ありのまま」が良いなんていうのは、幻想にすぎません。
「ありのままっぽく見える、適度に抑制されたワガママさ」を、人は「自然体」と呼んで、もてはやしているのです。




映画『アナと雪の女王』感想(琥珀色の戯言)


悪の教典 上 (文春文庫)

悪の教典 上 (文春文庫)

悪の教典 下 (文春文庫)

悪の教典 下 (文春文庫)