いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

ネットの世界で「老害」として生きるということ

参考リンク(1):tako_ashi 氏がイケハヤ氏に苦言!そのやり方は自分の未来を食いつぶしているだけ - togetterまとめ


普段お二人が書いておられる文章への好みからいえば、僕としては、小田嶋さんに一票入れたいところなのですが、



ほんとその通り!と言いたい一方で、世の中には「原価率の高さを回転率で補ってます!」って公言し、大繁盛している『俺のフレンチ』があったりするわけです。
イケダハヤトさんの場合は、そういうふうに「舞台裏を明かすこともコンテンツにしている人」ではあります。
案外、「寿司屋の大将から原価率の話を聞きたがる人」は多いのだな、という感覚が僕にもあるんですよね。


これはおそらく「たとえがあまり適切ではなかった」だけの話で、小田嶋さんとしては「内輪の話で興味を引くんじゃなくて、もっと外部向けの、一般の人に刺さるような面白い文章で勝負しろよ」ってことを仰りたいのではないか、と僕は思っています。


アフィリエイトで稼ぐという手法が、会社勤めよりも「未来的」かどうかというのは甚だ疑問です。
Amazon楽天、その他のネット通販サイトが「紹介者への還元」を、いまの割合でずっと続けてくれるという保証なんてどこにもありません。
最近でも、紹介料が改訂されることによって、アフィリエイトをやっている人たちは、大きな影響を受けています。
本でいえば、著者印税がだいたい10%ということを考えると、いまの「ネットで紹介しただけの人がもらえる割合(だいたい3%くらい)」は、もらいすぎかな、とも思いますし。


Webでのテキストというのは「完成された手の届かないもの」よりも、「自分でツッコミを入れられるような、未完成なもの」が好まれる傾向があります。
イケダさんは、わかっていて、あえてそれをやっている人で、「プロ釣り師」なんですよね、たぶん。
おそらく、「どんな綺麗なものを書いたって、そんなに人は見に来てくれないし、お金にもならない」ことを熟知されています。
校正して、誤字やミスを減らすよりも、その時間をつかって、新しいエントリを書いたほうが「効率的」だと考えておられるようです。
たぶん、「稼ぐ」という基準でいえば、それは正しい。
ただし、そうやって濫造されたものは、長い目でみれば、信頼を失っていく可能性が高い。


小田嶋さんは『小田嶋隆のコラム道』という著書のなかで、こんなふうに書いておられます。

 なんとなれば、新聞や雑誌の紙面のうちに、ひとつの枠を与えられて、その中でなにがしかの言説を開陳する以上、そのテキストが、周囲の、他ページの、上段や下段にある文章と同じテンポやムードの出来物であって良い道理はないからだ。
「おい、この書き手の文章は、何かが違っているぞ」
でも良い。あるいは、
「まーたオダジマの原稿は、いいぐあいにきちがってやがるな」
 でもよろしい。
 いずれにしても、読み手による好悪や、その時々の出来不出来を超えた地点で、コラムは、「違った」文章であらねばならない。
 内容、文体、視点、あるいは結論の投げ出し方や論理展開の突飛さでも良い。とにかく、どこかに「当たり前でない」部分を持っていないとそもそも枠外に隔離された甲斐がないではないか。
 だって、居住区域外の、ある意味鉄格子の檻みたいなものの内側に、オレらコラムニストは追いやられているわけでから。だとしたら、ガオオオぐらいな咆哮はやらかしてみせつべきところだろ? 見世物芸人の意地として。

 これを読むと、小田嶋さんの「コラム」に対するスタンスがよくわかります。
「炎上をおそれない、あるいは、あえて炎上しそうなところを狙っていく姿勢」というのは、ある意味、イケダさんにも共通するところがあるのです。
 異なるのは、イケダさんが「自分は時代を切り開いて行く先駆者なのだ」と考え、公言しているようにみえるのに対して、小田嶋さんは「自分はアウトサイダーで、見世物芸人なのだ」という複雑な矜持を抱えていることでしょう。
 だからこそ、僕は小田嶋さんの文章が好きなのだけれども。


 これはもう、どちらが正しいとか、間違っているとか、そんなふうに決めることはできない話ではあります。覚悟の差が、書いているものの重みの差になっているような気がするけれど、「重い」ものは敬遠されがちです。


僕自身は、「すぐマネタイズの話になってしまう風潮」が好きになれません。
「お金になる」というのは悪いことじゃないのだけれども、「お金が絡まないからこそ、言いやすいこと」っていうのも、確実にあるわけで。
プロの書評家さんたちは、それが仕事であり、収入源であるがゆえに、率直な評価を言いにくくなってしまう、ということがあるそうです。
どんなに「つまらない」と思っても、その本の著者とか編集者、出版社との今後の関係を考えると、あからさまに「ダメ出し」できない。
ネットで話題になったサイトが、広告を載せたり、IT関係の会社から「仕事」をもらったりすることによって、なんだかつまらなくなっていくのを、僕は少なからずみてきました。
最初は「お金のためじゃなくて、自分がここにいることを知ってほしい」という思いではじめたサイトやブログでも、それが生きる糧になってしまうと、収入が失われることを怖れて、スポンサーに遠慮するようになってしまう。
あるいは「お上品」になってしまう。
人は「1万円を儲ける喜びよりも、1万円を失う悲しみのほうを大きく感じる生き物」なのだそうです。
一度、Webでお金を得ることに慣れてしまうと、それを失うのは、経済的にも精神的にも、たぶん、けっこう苦しい。


黎明期のネット上の文章というのは、技術的に拙くても、「とにかく自分が書いたものを、読んでもらいたい!」という熱さがありました。
お金につながる、なんて発想そのものがなかったから、「多くの人に読まれる」「自分が書いたものを好んで読んでくれる人がいてくれる」のだけが楽しみで。
でも、「儲けるための筋道」ができてしまったがために、「お金のことなんか考えずに、書きたいことを書きたいだけ書いていたはずの人」も、そのスタンスを維持することが難しくなったのです。


99%くらいの人は、欲望の大小はあるにせよ、「お金が欲しい」。
もちろん、僕もそうです。生きていくためには必要なものだし、わかりやすい自分への「評価」でもあるしね。
お金になることが、書き続ける動機になる、という人もいるはず。
ただ、それを公言するのに抵抗があるのは、僕が旧いネットユーザー(というか「個人サイト管理人」)だからなのでしょう。


ネットで文章を書くことは、「現実から逃避してしまいがちな僕が、職業人として王道を歩めていないことを自嘲しつつもやめられない、存在証明であり、カルマみたいなもの」でした。
もちろん、いまもそういう面はあります。
たいしたことは書けていないけれども、「たいしたことを書かないこと」に意地になっていたりもするのです。


こういうのはもう流行らない、ということは、自覚しています。
でもまあ、みんなが「マネタイズ!」って叫んでいるなか、老害(僕のことですよ念のため、いろいろ邪推しないでね。最近はこんな注釈を入れないといけないのがめんどくさいんだよなまったく)が乾布摩擦しながらたまに出てくるのも、それはそれで面白いのかな、と。


さあ、俺の屍を越えてゆけ



小田嶋隆のコラム道

小田嶋隆のコラム道

アクセスカウンター