いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

お正月に義父が教えてくれた「子どもの頃のおやつの思い出」

 元日は、妻の実家で過ごしてきた。
 5歳になった息子が、「デザート」ばかり欲しがり、ご飯を食べてくれず、好き嫌いも多くて困る、というような話のなかで、60代半ばの義父は、こんな思い出を語ってくれた。

 ぼくが子どもの頃は、戦争が終わったあとで、まだいろんなものが十分には無かった時代でね。
 田舎だったから、日々の食べものがなくて飢え死にする、というほどではなかったけれど、それでも、お菓子のような甘いものは貴重だったんだ。
 でも、当時はうちだけじゃなくて、周りもみんな同じように貧しかったんだけどね。


 学校が終わって、近所の友達の家に行くと、おやつとか夕食の時間になることがあった。
 他所の家に行くと、おやつの時間や夕食の時間になることもあったのだけれど、当時の友達の家では、お菓子があったりすると、まずその家の子どもの分があって、もし余ったら少し僕たちもお裾分けしてもらえる、っていう感じだった。
 とにかく、モノが無い時代だったから。


 でも、僕の家は違っていてね。
 おやつの時間に友達が来ると、その日のおやつを、友達や兄弟の分も同じ大きさに切り分けて出していたんだ。
 当時は「なんでウチだけ?」とか「自分はこの家の子どもなのに、なんでみんなと同じ大きさなの?」って、内心恨んだりもしたよ。
 だって、他の家では「まず自分の家の子どもが先」だったし、貧しさは、同じようなものだったのだから。
 親は、ぼくのことがかわいくないのかな、とかね。


 でも、自分が親になってみて、ようやくあの意味がわかったような気がする。
 あれが、親の「教育」だったんだな、って。

 
「食べものの恨みはおそろしい」なんて言うけれど、このことを義父がずっと覚えているということは、たぶん、当時はすごく悲しかったのだろうな、と思う。
僕が子どもの頃、35年くらい前にも、「お菓子は貴重」という空気が、まだ少しは残っていた。
子どもの数も少ないし、安価でさまざまな種類のお菓子が食べ切れないほど流通している時代に親になったいまの僕には、実感しきれないところもあるのだけれども。


 「教育」って、言葉で言い聞かせたり、行動を規制するだけじゃないというのは、どの時代でも同じなのだろう。
 そして、本当の「教育」というのは、ずっと後になって、その「価値」みたいなものが、じんわりと効いてくる、そういうものなのかもしれない。

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